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バックナンバー 2019-01

唐船風説書

第22回 2019.1.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄五年(一六九二) 五嶋で破船したシャム船の唐人共の口述 注①

私共の船はシャム国で積荷を仕立て、唐人九十二人シャム人一人都合九十三人が乗り組んで、当五月廿日にシャムを出船して渡海して参りました。七月上旬迄はまずまずの順風に恵まれ渡船して来ましたが、同月中旬よりうって変って毎日逆風ばかりになり、海上は格別の荒れようでした。それでも漸く五嶋の海上に来てほっとした折り、またまた北風が吹出し、五嶋の内赤嶋と申す所で八月朔日に船を瀬へ乗り上げ、大船であるため乗廻しも出来ず難破してしまいました。その節、即刻赤嶋より小船六艘を出して乗組の唐人共を助けていただき、一人の死損も無く命が助かった事、先は大幸でございました。この赤嶋は洋中の風波をまともに受ける所でございましたから、破船を遁れるすべはなく、翌二日には過半を破失し、三日には悉く打砕かれました。それより、五嶋で警固に当たりかつ水練に長けた諸侍衆や、その外百姓漁師に至る迄が力を合わせて、流失の荷物の回収に当り、浅海にあった分は残らず回収されました。深海に沈んだ分は、水練に長けた者達が日々探索に当り、力の及ぶ範囲は皆回収されました。その外浦々海辺の分は、俄に小屋がけして大勢が警固に当って厳しく守ってくれました。乗組の唐入については、赤嶋より三里程離れた海辺で崎山と申す所に小屋がけするように指示され、その小屋に七十三人が滞在し、二十人は赤嶋に滞在しました。もっとも警固は厳しく、日本人との交流は禁ぜられ勿論少々の物とても商売は許されませんでした。回収された流失荷物は、一々私共へ見届けさせられ、今以って唐人十人は赤嶋に荷物確認のため残っております。順次回収された荷物等は今度廻船大小六艘に積まれ、医者二人までも付き添わせていただき、唐人とシャム人八十三人は廻船と共に、今日ご当地へ致着いたしました。荷物確認のため残った十人も、最早回収された荷物も残っていないでしょうから追っ付けご当地へ参る積りでございます。

次に私共の船がシャムを出船した時のことですが、別に一緒に出船した類船も無く後から出船した船もありませんでしたが、私共の船に先立って五月十八日にシャムを出た船が二艘ございます。只今伺ったところでは二艘とも当七月の内に入津した由にございます。私どもが航海中は洋上で見かけた船はございません。上述のように赤嶋で破船し、この間五嶋領へ滞在しましたが、破船以前に日本の地は他所へ船を寄せたことはございません。船頭曾明官は去年八十八番船の船頭として渡海してきた者で、乗り渡ってきた船は去年の八十二番船でございます。

さて又シャム国の様子ですが、あまり変わったことはありません。とはいえ、シャムの属国であるパッターニと申す所、前々からシャムへ貢礼を欠かしませんでしたが、近年その貢礼を怠るようになったため、シャムより征伐の士卒二万程パッターニーへ差し向けたところ、パッターニーの国王は山に引き籠り敵対しなかったので、シャムからの軍兵は攻めあぐんでおりました。しかし一旦派遣した軍勢を引き返すわけにもいかず、私共が出船した折りも、又増兵を一万差し向けようとしているとの事でした。出船の後どうなったかは知るすべもございません。これらの事は定めて先に入津したシャム船から詳しく述べていることと思います。私共も知っていることは申し上げました。この外は別に変わった事も聞いておらず、申し上げる事はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 申九月十三日 唐通事共

注① 「華夷変態」の中で難破船の口述は珍しい。当然のことながら、船番号は振られていない。


元禄六年(一六九三) 六十七番カンボジア船の唐人共の口述

私共の船はカンボジアで積荷を仕立て、唐人五十五人乗組んで、当六月朔日に類船も無く、私共の船一艘のみ出帆して渡海して参りました。渡船の間、海上にて変わったことはありませんでしたが、逆風ばかりで、この季節特有の南風は稀でしたので、洋中日数を費やしましたが、幸い凌ぎ渡りました。勿論日本の地は何方へも船を寄せることなく、直に今日入津いたしました。カンボジアから後続の船はもう二艘ございまして、一艘は厦門よりカンボジアに渡り、カンボジアで荷物を調達して渡海してくる筈でしたが、私共の船が出船した時はようやく荷物半分積み終わったところで、出船は六月末になる様子に見えました。それでは海上の風向きが良いはずがありませんから、当津へ着船できるかどうか覚束ないと思われます。もう一艘は去年シャムを出、ご当地へ渡る途中風難に会い、カンボジアへ乗り入れ、これ迄滞船し早々にも来朝の筈でしたが、カンボジアからシャムへ注文した貨物を待ってカンボジアを出船する予定でした。しかし私共が出船する迄シャムからの貨物は届かず、カンボジアに待機していました。この船も季節が悪くなる時分ですから来朝できるか分かり兼ねます。この他にカンボジアから渡海してくる船はございません。本船頭黄友官は、去年六十三番船で船頭として渡ってきました。脇船頭呂集官は、同船の庶務役でした。乗渡ってきた船は初めての渡海です。

ところで去年五十八番のカンボジア船、去冬ご当地より帰帆した後カンボジアに着船しておらず、また何方へ漂着したとも又は破船したとも沙汰がございません。大方洋中で沈没したのではないかとカンボジアでは取り沙汰しております。あるいは幸いシャムへ乗り入れたかも知れず、自他ともに推量しております。

次にカンボジアの事ですが、いよいよ静謐でございます。兵乱の沙汰も無く国土安堵しております。只今伺いましたが、去る十二日に入津した六十六番広南船の者共が申上げたとのこと、すなわち兼ねてカンボジアの大王と不睦で広南へ身を寄せていた第二王が広東の海賊陳尚川を従えカンボジアの大王を攻めたと申している由。これは広南の唐人共が何も知らず風聞にまかせて申上げている事と思われます。カンボジアの第二王は確かに兼ねてより広南へ引き退いていましたが、一昨年病死し後継もございませんでした。従ってカンボジアは寧静でございます。また広南の内占城(チャンパ)の王が広南に背き山中へ引き籠った件は、なるほどその通りでしょうが、これもも上記広南船よりは王を生捕ったと申している由でございます。事実は山中に籠もったままでございます。

カンボジアは今年多雨豊年で米穀は豊富で安く手に入ります。国家の異変は些かもありません。大清の様子については、カンボジアは大清の外国でございますから、委細は聞いておりません。今度の航海中、洋上で何船にも会うこともなく、変わったことはなにもありませんでした。この外申し上げるべきことはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 酉七月十五日 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)