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バックナンバー 2019-03

唐船風説書

第24回 2019.3.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄六年(一六九三) 七十七番リゴール船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国が支配しているリゴールと申す所で積荷を仕立て、唐人四十一人が乗り組んで、当五月十三日に類船無く私共の船一艘のみで出帆して渡海して参りました。後から来るリゴール船も無く私共の船一艘だけでございます。この夏の海上は例年と違い逆風ばかりで、なにかと難儀致しました。リゴールを上述の日に出船し、ようやく七月六日に普陀山(注①)へ船を寄せ、かねて寧波へ頼み置いた糸端物等が普陀山で待ち請けておりましたので、即刻それらを積み添え、その外の諸用も済ませて、同十五日に普陀山を乗り出しました。しかし海上の風が不順で洋中へ乗り出すことが出来ず、又々普陀山へ船を乗り戻して風を待ち、同廿一日に少し順風を得たので渡海して参りました。その出港の日、かねて普陀山に漂着していた日本人が、普陀山よりご当地へ渡海する船二艘に分乗して、漂着の時に乗っていた船も一緒に出船致しました。只今承ったところ、一艘は昨日入津した七十六番船とのこと、今一艘は未だ入津していないとのこと、定めて海上乗り筋が悪く延引しているのでございましょう。この漂着の日本人のこと、私共普陀山では用事が多く見る機会は無く、只聞いただけでございます。さて普陀山よりご当地迄の海上も逆風ばかりで、ようやく当月三日に平戸の海上迄たどり着きましたが、私共が乗っていた船は殊の外古船で、平戸海上で船底を損じて浸水を被り、かろうじてその日の夜水を繰り出す躰でございました。そんな状態で直にご当地へ入津することは難しくなり、同四日に是非なく平戸のご領地へ碇をおろしました。その節、碇を下ろした場所を知らせるため石火矢を打ちましたところ、すぐに番船を出していただき、厳重警固の上挽船に引かれて、今日迭り届けていただきました。このように平戸ご領へ碇をおろした外は、日本の地何国へも船を寄せたことはございません。また渡船の途中、順風が稀であった為海路日数を費やした外、変わったことはなく、何船にも行き逢うことはありませんでした。船頭陳翼文は、去年六十二番船で脇船頭をつとめた者、乗り渡って来た船は、今回が始めてでございます。

次に大清の様子、私共は去年よりリゴールへ渡り、今度普陀山で数日滞船しただけですので、大清内地委細の事は存じません、只諸省共にいよいよ静謐とのことを聞いております。

さて又リゴールのこと、既に述べたようにシャムの支配地で、シャムの役人が守護しております。リゴールの人柄風俗等、シャムには劣っております。産物とては、糸端物類はなく、すわう、黒砂糖、大風子、鹿皮、牛の皮や角の類のみでございます。従って例年唐船一艘二艘迄の商いで、それ以上の船が渡ってきても買い付ける荷はございません。もっとも安値の品物は沢山ございます。以上述べた以外申し上げることはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 酉八月九日 唐通事共

注① 上海の近く、浙江省に位置する舟山群島にある島。長崎を目指す最後の停泊地。


元禄六年(一六九三) 八十番パッターニー船の唐人共の口述

私共の船は、去冬寧波よりパッターニーと申す奥の国へ渡り、その地でご当地向けの荷物等を調達し、唐人六十六人が乗り組んで、当六月九日に類船も無く、私共の船一艘のみで出船致し渡海して参りました。もっとも、ご当地へ渡ってくる後船はございません。上述の通り六月九日にパッターニーを出帆し、七月十五日に普陀山へ船を寄せ、同廿四日に普陀山を乗り出し渡って参りましたところ、当月七日に対馬海上迄来たところで、海上の風が極めて悪くなった為、是非無くその日に対馬領へ碇をおろし、合図の石火矢を打ったところ、すぐに番船出していただき、堅い警固で、翌八日に人質として唐人四人が取り置かれました。その後ご当地への順風が無く、ようやく当廿日に対馬を出帆、その日案内の上乗りとして日本人四人を私共の船へ乗せ、その案内で今日ご当津へ迭り届けていただきました。普陀山を出船して以来渡海の間は、海上外に変わったことは無く、只逆風ばかりで難儀致しました。それに就き、対馬へ漂着して碇をおろした外日本の地他所へ船を寄せたことはございません。本船頭洪聯官は、六年前七十二番船の船頭として渡ってきた者、脇船頭陳鴻官は、五年前三十七番船の船頭として渡ってまいりました。乗渡りの船は、四年前の六十八番船でございます。

次にパッターニーの事、前々からシャム国へ貢を致し属国分でございましたが、一昨年以来貢を怠った為シャム国より征伐として兵船多艘差向けられました。パッターニーの王は元来女王でございます。昔から男子王であった事は無く代々女王でございます。上述の通りシャムより追討の様子を聞くやいなや、女王臣下共に奥山へ引籠り開戦に至りませんでした。シャム勢も奥山は不案内で只滞陣するだけでしたので、パッターニー王も奥山に籠ったまま、シャム勢を草臥れさせました。その上山中より折々毒を流しシャム兵卒を死失させる事限りありませんでした。しかしながらシャムは大国ですから次々兵卒を派遣しパッターニーを妨害し続けました。従ってパッターニー王が奥山に籠って居るだけでは、攻め破られる事は無くても、国家を妨害され国土を亡失しては、第一大清の商人の往来が途絶えてパッターニーは破却してしまい、殊に何程シャムをこらしめても、その度に勢を増してきては、毒ながしも甲斐ないこと、それに依り当春パッターニー王は山中より出て、前々の通り貢納することを伝えて降参致しました。シャム勢もこれを幸いとし退軍致しました。その後程なく貢船をシャムへ差向けたので、別条無く両国共に静謐になりました。以上述べたことの外に申し添えることはございません。もっとも大清の今年の様子ですが、私共はパッターニーに滞船の日数が多かった故、承っておりません。普陀山へ船を寄せた時に聞いた限りでは、何国も静謐とのことばかりで、このこと以外に申し上げるべきことはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 酉八月廿九日 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)