Logo of JTBF
トップ・ページ  バックナンバー・リスト
文字サイズ: 

バックナンバー 2019-04

唐船風説書

第25回 2019.4.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄七年(一六九四) 四十七番シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国で積荷を仕立て、去年五月廿日にシャムを出船し、御当地へ向かう予定でしたが、海上 逆風ばかりで御当地へ来朝することが出来なかったので、是非無く船を乗り戻し、同年七月廿九日に、広東の内潮州へ船を乗り入れ滞船し越年しておりました。今度潮州で唐人百十九人、外にシャム一人、都合百二十人が乗り組んで、当月六日に類船無く私共の船一艘のみで潮州を出帆して渡海して参りました。潮州仕立ての後続船は私共が見た限りでは二艘で何れも追々来朝すると思います。其の外潮州で聞いたところでは広東本城の地より来朝の船二艘、すなわち同省の内高州で仕立てた船が二艘、又は高州の内海南と申す所で仕立てた船一艘、何れも御当地へ渡海する筈であるとのことです。この外の湊のことは存じておりません。今度渡船の間、海上にても変わったことは少しもありませんでした。異国の地では何船にも行逢うことは無く、今朝より当湊の外で、私共の船の先に唐船一艘が先だって入津するのを見ただけでございます。この船何国船か見分けられませんでしたが、只今お伺いしたところ泉州出の四十六番船とのことでした。数日以来海上は順風でございましたので、日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。本船頭の許軒官は一昨年六十四番船の事務役を勤めました。脇船頭の楊聯官も、同船に乗って来た者でございます。乗渡って来た船も同じ船でございました。さて私共潮州に滞船中に聞いたところでは、大清諸省は共に太平で変わったことはございませ。尤も海上でのこととて委細を聞く機会はありませんでした。

シャム国の様子ですが、既に述べたように去年から潮州に滞船しておりましたので、当年の状況は存じておりません。次に潮州の内に数年以来銀山が見つかり賑わっております。鉛が大量に出、鉛百斤の内には時により白銀が多い時、七拾目また六拾目より四拾目まで含まれます。この銀山には勿論現地の者、其の外諸方より集まってきた者、其の外商賣人、都合およそ二百万余の人数が集まって生活しております。そうした所に数年の間潮州の官役も其の数多く、この銀山の所務を悉く大小の官家に分配し、公儀へも銀山有ることを知らせず、皆々私務に仕来たってきました。このことが北京へ聞こえたので、北京より近習の官を差越され改められました。尤も厳しい様には聞こえましたが、異国の風に従って処理され、この事も諸官家からこの近習官に密々の示談があった筈とのうわさにございます。もしも近習の官が厳しく詮議したなら、数年来潮州の諸役が私に得て来た銀高は悉く勘定に入り、押領したものを没収され諸官役は残らず罰せられたに違いありません。そうなっては潮州の安寧は乱され変乱の心配も生じることになります。結局前々の通りに成り行き、無事に収まったと、人々は沙汰しており、私共もそのように聞きました。この外に変わったことは聞いておらず、申上げることはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 戌閨五月廿五日       唐通事共


元禄七年(一六九四) 五十七番リゴール船の唐人共の口述

私共の船は、シャムの内リゴールと申す所で積荷を仕立て、唐入四十一人が乗組んで五月八日に、類船無く私共の船一艘のみでリゴールを出帆し渡海して参りました。当月九日に普陀山へ船を寄せ、其の日の内に普陀山を乗り出し渡船して参りました。リゴール仕立ての船は私共の船一艘のみで、外に後続の船はございません。この間海上で変わったことは無く、異国の洋中で何船に行き逢うこともありませんでした。去る十九日に五嶋の海上で唐船二艘を遠々見かけましたが何国船とは見分けられませんでした。 船の向き様からご当地から帰帆の様子に見えました。不審には思いましたが尋ね様もありませんでした。只今伺ったところでは積み戻り船が二艘あったとのこと定めて其の船であったと只今思いあたりました。リゴールからご当地迄は格別遠海のことで、海上にて日数を要しますが、日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭の沈念修は、去年九番船の事務役を勤め乗り渡ってきた者でございます。船は初めて乗り渡ってきた船でございます。

次に大清の様子ですが、私共は去年より大清の地を出て今年迄リゴールに滞船しておりましたので、大清の今年の様子は存じておりません。その段は定めて以前に大清の地より参った船から詳しく報告があったことと思います。リゴールのことは、いよいよ例年の通り清寧でございます。乱隙の沙汰もこれまで聞いておりません。リゴールはシャム国へ前々から貢礼しています。しかし属国とは申しても数百里隔たっていますから、シャムの様子は具には分かりません。これまで変わったことは聞いておらず、申し上げるべきことは少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 戌六月廿二         唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)