第27回 2019.6.1 配信
JTBF 広報委員会
タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。
私共の船はジャワの内パッターニーと申す所で積荷を仕立て、当五月十五日に類船も無く私共の船一艘のみで彼地を出船致しました。海路風並みが悪く海上で日数を費やし、ようやく閏五月廿日に浙江の内温州(注①)に着船しました。温州に於いて糸端物の類を積み添え、ならびに水薪を支度致し、唐人六十七人が乗り組んで、六月十五日に温州を乗り出し渡船して参りました。パッターニーに於いては、大清の地より彼地へ渡って来た唐船が、私共の船と共に三艘ございましたが、その内私共の船一艘はご当地へ渡海して参り、残り二艘は大清の本所へ帰帆する由で、私共の船の後に帰唐した筈でございます。従ってご当地へ渡海の船は、私共の船一艘のみでございます。また私共が船を寄せた温州に於いても、外に後船とても無く、パッターニーを出船してから、海上も既に申し上げましたように風が不順で難義した外は、変わったことは無く、勿論何船にも行逢うことはありませんでした。幸いなんとか凌ぎ渡り、日本の地何方へも船を寄せること無く、直に今日致入津致しました。船頭李苑觀ならびに乗り渡ってきた船共に、初めての渡海であります。
さて大清今年の安否ですが、私共の船は去冬よりパッターニーに滞船しておりましたので委細はわかりません。ただ温州に船を寄せたとき聞いたところでは、何国も静謐とのことでした。次にパッターニーのこと、ジャワ国の内にありますが、前々よりシャム国の属国になってシャムへ貢礼致しております。ところが近年異心をいだきシャムへの貢礼を怠った為、去年迄一両年の間、シャムより兵船を差向けられ追討されておりました。その間パッターニーの君臣民家迄も悉く山中へ引籠りましたので、シャム勢も手の下しようもなく、むなしく年月を送っておりました。そして双方ともに軍が疲弊し、パッターニー側から和談と前々の通りの貢礼を申し入れました。シャム側もこれを幸いに其の意を受け、軍士兵船共に皆々引上げました。それに依ってパッターニー王は山中より出て、以前の通りパッターニーに在城致して、寧静になりました。しかしながら乱国の後とて、私共商人にとっては商売不如意でございますから迷惑なことでございます。
惣じてパッターニーと申す所は、古来から女王で無くては王位に立つが事が無い事で知られています(注②)。しかしその女王も他の国と違い、血脈筋目を継ぐということはございません。古くから定まった官家は申すに及ばす、民家にても王位にふさわしい女子が自然に出生するのでございまして、女王の誕生は懷胎の内より知られて、出生の後も幼稚形相其の外奇異の事が現れて、女王に紛れない其のしるしが有るので、国中から迎え受けられ王位にそなえられるのでございます。その上新王が出生されると在位の女王が程無く辞世される習わしですから、君臣民家共にその覚悟で、出生の女王を請じ王位にそなえ申すのでございます。もっとも女王は一生独身を厳密に保ち夫王と申す事の無い国風でございます。以上の事、私共が彼地へ渡って良く知り得たことで概略申し上げた次第です。この外に、申し上げるような変ったことはございません。
右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
戌七月八日 唐通事共
注① 浙江省東南部に位置する。海を挟んで台北の北岸にあたる。
注② パッターニーが女王国であることは、これまで何度も口述されていたが、その詳しい内実はこの口述がはじめてである。
私共の船の事、ジャワ国の内パッターニーと申す所で積荷を仕立て、閏五月十七日に類船も無く、私共の船一艘のみでパッターニーを出帆し、六月廿日に普陀山(注③)へ船を寄せ、かねて手配しておいた糸端物の類を積み添え、ならびに水薪等を調達し、唐人三十七人が乗り組んで、同廿六日に普陀山を乗り出し渡海して参りました。パッターニーを出船して以来洋中に於いて変ったことはございませんでした。また何船も見かけませんでした。私共の船は、乗り筋が良かったせいか、風難も無く渡って来ましたので、日本の地何国へも船を寄せること無く、直に今日入津いたしました。パッターニー仕立ての船は私共の船共に三艘でございました、内一艘はは大清の本所へ帰帆した筈でございます。もう一艘は先だってご当地を目指すむね、彼地で聞いておりましたが、只今お伺いしたところで昨八日に入津した六十六番船の由にございます。私共の船はパッターニーで積荷に日数がかかり、出帆が後れてしまいましたので、海上の風も不順であろうと予測され、来朝も定め難いと船中の者共に申し聞かせましたが、元よりご当地を目指す覚悟であると申すので来朝して参りましたところ、思いのほか風並もが良く渡ってこれました。最早私共の船の外にパッターニーから来朝の船はございません。船頭趙一官は四年前に船頭として渡ってきました。乗り渡ってきた船ははじめての渡海でございます。
私共の船は去冬パッターニーへ渡り当年迄彼地に滞在していましたので、大淸安否の委細は存じません。ただ今度普陀山に船を寄せた時、諸省共にますます静謐とのことを聞きました。またパッターニーの事、ジャワ国の内にありますが、前々からシャム国の属国になっておりました。しかし両三年以来シャムに異心致した為、シャムより兵船を差し向けられ追討されておりましたが、双方勝劣がつかないまま、相互に和談に成り、パッターニー側より前々の通り貢礼を行うことでシャム側も受け入れ兵船を引上げました。当年になって国土清寧でございます。この事は定めて先立って入津したパッターニー船より委細を申し上げたことでしょうから、私共が重ねてご説明するに及ばないこととは思いましたが、存じていることあらまし申し上げないのも如何と思い、以上の通りお伝えした次第です。この他にはお伝えすること少しもございません。
右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
戌七月九日 唐通事共
注③ これまでの注記を繰り返すことになるが、上海の近く浙江省に位置する舟山群島にある島。長崎を目指す最後の停泊地。
文責 奥村紀夫(JTBF 会員)