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バックナンバー 2019-11

唐船風説書

第32回 2019.11.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄九年(一六九六) 七十九番パッターニー船の唐人共の口述

私共の船は、去冬十二月十七日に浙江の内寧波で積荷を仕立て、唐人数四十人が乗り組んで、ジャワ国の内パッターニーと申す所へ渡り、そこで商売を済ませたら直にご当地へ来朝する積りで滞留し、当六月十一日上述の人数で、パッターニーより出帆しましたが、海上逆風ばかりで数度危い目に会いました。殊に船道具等も損じましたので、直に渡海することは難しく、是非無く七月十一日普陀山迄乗り渡り、そこで船道具を修復し、そのほか糸端物を少々、パッターニーで仕入れた品物と買い替えし、同十七日に普陀山を出船しました。しかし、乗り筋が悪かったせいでしょうか、思うように船を進める事ができず、海上に漂っておりました所、漸く順風を得ることが出来るようになり、日本の地何国へも船を寄せる事なく、直に今日入津いたしました。パッターニーへは もう一艘広東から商売のため渡ってきた船がありましたが、この船は本国へ帰る船でございます。そのほか別に来朝の船はございません。船頭趙一官は一昨年六十八番船で船頭をつとめた者です。乗渡ってきた船ははじめての渡海でございます。

次にパッターニーのことですが、変わったこともなく太平でございます。殊に近方の奥国迄も異変の沙汰かつて無く、寧謐との事、パッターニーに於いても伝え聞きました。さて又大淸の樣子は、普陀山で伝え聞いたところでは、諸省共にいよいよ安靜の由にございます。普陀山は、 近来繁盛しており、観音参詣の者共が入り混じり賑わしい事でございます。以上申し上げた事の他に、別に変わった事は少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 子八月十六日       唐通事共


元禄九年(一六九六) 八十番リゴール船の唐人共の口述

私共の船は、去冬十二月に浙江の内寧波で積荷を仕立て、商売のためシャムの属国リゴールと申す所へ渡り、商売しましたが、彼地は小国のため、積んでいった荷物を売り払うことができず、売り残りの荷物にリゴール産の荷物を積み添えて、当六月十七日に唐人三十七人が乗り組んで、彼地を出帆致し渡海して参りました。しかし海上逆風ばかりで、数度船を乗り戻し難儀に及びました。そのため思いの外日数がかかりましたが、やがて少々順風を得るようになりましたので、日本の地何国へも船を寄せず、直に今日入津致しました。私共の船に数日先立って、同じリゴールの湊を出帆しご当地を目指した船がございましたが、只今承ったところ、先に入津した六十三番船の由にございます。このほかに彼地より参る船はございません。大清よりシャムへ商船が数艘毎年渡ってきますが、リゴールより遠方になるので、渡海の船の員数などは承っておりません。これ又只今承ったところでは、先にシャムよ二艘入津した由にございます。船頭姚蔚生と乗り渡ってきた船共に、今度初めての渡海でございます。

次にリゴールのこと、いよいよ異変無く、殊にシャムその外近隣の奥国はどこも太平である由、伝え承っております。さて又大清のことですが、去年リゴールへ渡海したため、諸省の樣子は存じておりません。定めて大清より渡海の船々から委細を申し上げたことと存します。これ等の外に申し上げることは少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 子八月十七日       唐通事目付 唐通事共


元禄九年(一六九六) 八十一番カンボジア船の唐人共の口述

私共の船は、元浙江の内寧波で荷物を仕立て、去年十二月に商売のためカンボジアへ渡り、商売を終え、彼地出産の荷物、その外売り残した糸端物等を積み込んで、六月六日に唐人七十八人が乗り組んで、ひとまず本国へ帰り、その後ご当地を目指して出航しました。しかし海上悪風ばかりで思うように進まず、本国へ帰ることも叶わず、沈溺の危い様で度々船を乗り戻しましたが、ようやく少々順風を得るようになりましたので、日本の地何国へも船を寄せず、直に今日入津致しました。総じて福建広東浙江表より商船都合五艘がカンボジアに渡り商売しましたが、私共三艘は本国へ帰る筈でございました。彼地より直にご当地を目指したのは、私共の船に先立って出船しました二艘でございます。これらの船は、乗り筋が良かったとみえて、只今承ったところでは、先に入津した五十一番、六十九番船の由にございます。洋中においては何船も見かけませんでした。本船頭高愛官は去年五十九番船の客として渡って来た者、脇船頭洪聯官も同船で筆者役を勤めました。乗り渡って来た船もその節の船でございます。

カンボジアの事、いよいよ例年の通り太平でございます。その他近隣の奥国は何処も静謐との事、伝え承っております。又大清のことですが、去年より寧波を出船しカンボジアに渡海し滞船しておりましたので、当年の安否は承っておりません。定めて大清より渡海の船々から委細を申し上げたことと存します。これ等の外に申し上げることは少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 子八月十七日       唐通事目付 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)