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バックナンバー 2019-12

唐船風説書

第33回 2019.12.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄十年(一六九七) 七十七番カンボジア船の唐人共の口述

私共の船は、厦門で積荷を仕立て、当一月に商売のためにカンボジアに渡り、しばらく滞船してカンボジアの産品を仕入れました。当五月八日に類船は無く、私共の船一艘のみ、唐人四十三人が乗り組んで彼地を出帆して渡海して参りました。カンボジアより後続の船が四艘あり、いずれも当一月に厦門の漳州からカンボジアに渡り、商品を調達してからご当地へ参るつもりでした。今度ご当地へ渡海の途中、五月十九日大嵐にあい沈船しそうになりましたが、蘇木などの荷を大分捨てて船を軽くし、かろうじて難を逃れました。その後は順風に恵まれ、日本の地何国へも船を寄せること無く、直に今日入津致しました。本船頭李廉官は昨年の五十一番船で渡来した者です。

次にカンボジアのこと、変わったこともなく国土靜平でございます。大清は、私共が当一月に出帆するまで全国土とも静穏でございました。その後はカンボジアに滞船し直にご当地へ参りましたので、その後の大清の樣子は承っておりません。カンボジアは折々広南と通商がありましたから、広南の様子は知ることができました。今年は三艘の船が広南よりご当地へ参るはずと承りました。毎年六月の中旬から七月のはじめにかけて出帆するとのことでございます。そろそろ出帆する時期と思われます。シャム国はカンボジアの本国ではありますが、遠海を隔てており、私共が滞船中シャムへ渡った船はありませんでした。したがってシャムの樣子は承っておりません。それ以外の奥国の消息も承っておりません。以上のほかに申し上げるべきことは少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 丑六月四日       唐通事目付 唐通事共


元禄十年(一六九七) 八十一番カンボジア船の唐人共の口述

私共の船は、カンボジアで積荷を仕立て、唐人九十二人が乗り組んで、当五月十日に類船は無く、私共の船一艘のみで彼地を出帆して渡海して参りました。カンボジアより私共の船に先立って、二艘が御当地へ向けて出帆しました。只今承りましたところ、一艘は先に入津した七十七番船の由にございます。今一艘は、今日私共の船の後から入津致します。更に後続の船が二艘あり、これらの船も追々来朝するものと存じます。私共の船は、三年前に厦門よりカンボジアへ渡り、彼地へ当年迄滞船し、その間近隣の奥国へ通い商売等致しておりました。今度ご当地へ渡海して参る途中、海上で変わったことはございませんでした。滞りなく渡海し、日本の地何国へも船を寄せること無く、直に今日入津致しました。本船頭尤瑞碧は、四年前に十二番船の船頭を勤めた者、脇船頭呉雅官は、十年前に渡海してきたことのある者でございます。乗り渡って来た船は、初めての渡海でございます。

次にカンボジアのこと、変わったこともなく国土靜平でございます。シャム国はカンボジアの本国ではありますが、遠海を隔てておりシャムよりの往来もありませんでしたので、シャムの樣子は承っておりません。さて又広南は、カンボジアより折々通商がありますが、広南表は変わったことも無い様子と承っております。また広南よりもご当地へ商船が来朝する由を承っておりますが、船数など、どの位参るのか存じておりません。これ以外の奥国は、何方も遠方でございますから、何の消息も承っておりません。かつ又大清の樣子は、私共の船、三年も前にカンボジアに渡っておりましたので、安否のほど承っておりません。以上のほかに申し上げるべきことは少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 丑六月七日       唐通事目付 唐通事共


元禄十年(一六九七) 八十三番カンボジア船の唐人共の口述

私共の船は、元寧波で積荷を仕立て、去冬十二月に商売のためにカンボジアに渡り、積んでいった荷物等を売払い、カンボジア産出の荷物を調達し、今度唐人六十四人が乗り組んで、当五月九日に類船は無く、私共の船一艘のみカンボジアを出船して渡海して参りました。私共の船に先立って、李廉官と申す者の船がご当地を目指して出船しましたが、只今承りましたところ、先にに入津した七十七番の船の由にございます。後から来る船が三艘ございますが、この内尤瑞碧と申す者の船が、今日私共の船に先立って入津した八十一番船でございます。今度渡船の途中、海上で変わったことはございませんでした。滞りなく渡ってきましたので、日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。本船頭高愛官は、去年八十一番船の船頭として渡海して参りましたが、その節ご当地での商売も成り立たず(注①)、荷役のお許しも無く、荷物を積んだまま帰唐致しました。脇船頭曾粲官は、今度が初めての渡海、乗り渡ってきた船は一昨年の二十七番船でございます。

次にカンボジアのこと、変わったこともなく太平のことでございます。又広南は、カンボジアより通商があり様子を承ることがありますが、広南表は変わったことも無い様子と承っております。また広南よりもご当地へ商船が来朝する由を承っておりますが、船数がどの位なのかは存じておりません。私共の船は去冬よりカンボジアに渡り滯船しておりましたので、当年大清の安否は承っておりません。定めて大清より来朝する船から委細申し申し上げていることと存じます。以上のほかに申し上げるべきことは少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 丑六月七日       唐通事目付 唐通事共

注① すでに唐船との年間取引枠を超えていた為。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)