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バックナンバー 2020-03

唐船風説書

第36回 2020.3.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄十年(一六九七) 百番シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャムにて積荷を仕立て、唐人六十六人が乗り組んで、当四月二十七日に類船無く、私共の船一艘のみ彼地を出帆致し渡海して参りました。私共の船に先立って、内湊より二艘の船がご当地へ向かいましたが、只今承ったところ、二艘とも既に入津している由にございます。この外大清よりシャムへ商売で渡ってきた船が二艘ございましたが、これらの船もご当地へ来朝する筈の由、私共が出船の時に承りました。しかしながら渡海が延引になったとのことで、来朝するかどうか図り難いことでございます。今度の渡船の途中、変ったことはございませんでしたが、六月七日に台湾の海上にて大風に逢い、船が危くなりましたので、 上廻りの荷物を取り捨て船を軽くして漂っております内に、風も静まり幸い風難を遁れ、どうやら凌ぎ渡り直に入津する筈でしたが、当月三日当湊沖にて、濃霧で山を見損じ、天草領椛嶋と申す所へ碇を降ろしました。その節案内の為石火矢をうちましたので、早速警固の船を差し出され、厳しい警護のもとに、挽船にて今日送り屆けていただきました。天草領へ碇をおろした外、日本の地は他所へ船を寄せたことはございません。本船頭徐森官は、九年前に船頭として渡海してきた者でございます。脇船頭徐素官と乗り渡って来た船は、共に今度が初めての渡海でございます。

、 次にシャムの事、属国も含めいよいよ異変無く靜謐のことでございます。殊に近隣の奥国は何方も変乱の沙汰かつて承ったことがありません。さて又ジャバよりオランダ船二艘がシャムへ来て居り、この二艘のオランダ船ともご当地へ渡海してくる船でございますが、私共の出船の時は、まだ出帆しておりませんでした。以上申し上げたこと以外、外に申し上げるべき異説は少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 丑七月七日       唐通事目付 唐通事共


元禄十年(一六九七) 百一番リゴール船の唐人共の口述

私共の船は、元寧波で積荷を仕立て、去冬十二月に商売の為、シャムの内リゴールと申す所に渡海し、彼地にて商売を終えそのまま滞船しておりましたが、売れ残りの荷物に合わせてリゴール出産の荷物を積み添え、唐人四十七人が乗り組んで、当四月二十日に類船無く、私共の船一艘のみ彼地を出船し渡海して参りました。リゴールからの後船はございません。尤も大清よりの商船が五艘滞船しておりましたが、いずれも小船で本国へ帰る船でございます。今度の渡船の途中、乗り筋が悪く海上で日数を費やしておりました所に、六月十六日洋中にて逆風に逢い難儀になり、運にまかせ漂っておりました所、霧が深く山を見損じ、直に入津を果たせず、是非無く同二十日に、薩摩領へ碇を降ろしました。其の節案内の為石火矢をうちました所、早速警固の船を差し出していただき、厳重な警護のもとに挽船にて今日送り屆けていただきました。薩摩領に碇をおろした外、日本の地は他所へ船を寄せたことはございません。船頭鮑允諒と乗り渡ってきた船は、共に今度がはじめての渡海でございます。

次にリゴールの事、いよいよ変わったこともなく国土静平でございます。殊にシャムその外近隣の奥国は何方も異変無く大平とのこと伝え聞いております。大清の樣子は、私共の船は去冬よりリゴールに滞船しておりましたので、当年の治安状況は分かりません。リゴールに於いて変わったことがなかったという以外、外に申し上げることは少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 丑七月十一日       唐通事目付 唐通事共


元禄十年(一六九七) 百二番リゴール船の唐人共の口述

私共の船は、元寧波で積荷を仕立て、去冬十二月に商売の為シャムの内リゴールに渡海し、彼地で商売を終えそのまま滞船し、当年本国へ帰る筈でしたが、売れ残りの端物等が大分ありましたので、リゴール出産の荷物を積み添えて、唐人五十五人が乗り組んで、当五月二日に類船無く、私共の船一艘のみ彼地を出船し渡海して参りました。私共の船に先立って鮑允諒と申す者の船がご当地へ向かいましたが、只今承ったところ先に入津した百一番船の由にございます。尤も大清よりの商船が三四艘滞船しておりましたが、何れも本国に帰る船でございました。今度の渡船の途中、洋中で変わったことはございませんでした。また何船に行逢うこともございませんでした。ただ私共の船の乗り筋が悪く、殊に風が不順でございましたので、思いの外海上日数を費やし、ようやく日本の地何国にも船を寄せることなく、直に入津する筈でしやが、当湊沖で逆風が強く、是非無く碇をおろし、ご当地挽船をお願いし、今日入津いたしました。船頭李時芳は、五年前に筆者役として渡海して来た者でございます。乘り渡ってきた船は、初めての渡海でございます。

次にリゴールの事、いよいよ変りなく靜平にございます。その外近隣の奥国についても何方も異変の知らせは聞いておりません。さて又大清の樣子ですが、私共の船は去冬よりリゴールに渡海しておりましたので、当年の治安状況はわかりません。定めて大清の諸湊より来朝した船頭共から委細を申し上げた事と存じ奉ります。これらのほか別段申し上げることは少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 丑七月十六日       唐通事目付 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)