第38回 2020.5.1 配信
JTBF 広報委員会
タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。
私共の船は、ジャワ国の内パッターニーと申す所の支配地、ソンクラーと申す所で積荷を仕立てました。もっともジャワ国の内とは言え、パッターニーはシャム国に属しシャムへ貢礼しており、このソンクラーはパッターニーの支配下でパッターニーに貢礼しております。土地は広いのですが、人民共は野人の類で、漸く数千人が住居している所でございます。物産としては漸く砂糖類が少々出ますので、私共の船、去冬彼地へ渡海して、今度すなわち彼地に於いて唐人四十〔六〕人が乗り組んで、去る五月八日に私共の船一艘のみで出船して渡海して参りました。後続之船が今一艘彼地へ滞船していましたが、大方は厦門へ帰帆の様子でございました。しかしながら又時の思案により、ご当地へ渡海してくることがあるかもしれませんが、如何ともはかり難い事でございます。この渡海の間、洋中では少しも変わったことはございませんでした。また何船にも行き逢いませんでした。当九日に当湊に近い山を見かけました所で、俄にその日の暮方に、山々に霧がかかり、風つよく、雨が激しくなりましたので船を嶋内へね乗り入れました。翌十日に見渡したところ、何地とも見分けがつかなかったので、是非無く、案内の為石火矢を打ち、碇を下ろしたところ、即刻彼地の番船が出て参り、おびただしい警固でございました。ちょうど船中の水薪が無くなっていたので、その断りを申し入れ、漸く水薪を少しばかり申し請けました。その後挽き船に挽かれ 今日入津致しました。碇をおろした場所以外、日本の地余所へ船を寄せたことはございません。船頭林五官ならびに乗り渡ってきた船共に、去年の三十二番の船人でございます。さて又大清諸省の案否の様子は、先着の船々共が申し上げたことと思いますが、私共はソンクラーから直接来朝しましたので、大清の様子は存じません。ジャワ国ならびにソンクラーの事は、例年に変わりなく寧謐でございます。申し上げることは以上の様子迄で、余の風説は少しも存じません。
右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
戌閏五月十四日 唐通事目付
私共の船は、シャム国の内ソンクラーと申す所で積荷を仕立て、当五月廿九日に彼地を出帆致し渡海して参りました。かねてより普陀山へ用意しておいた糸端物類がございましたので、六月一日に普陀山へ船を寄せ、その糸端物を積み添え、水薪等を支度しておりました所に、寧波官職より漂流の日本人が広東より送られて来ていて、この者共を乗せてご当地へ渡る様にと申し付つけられました。そして官職よりの証文を申し請け、唐人百四人、ならびに漂流の日本人十二人、都合百十六人が乗り組んで、同月廿三日に普陀山を乗り出して渡船して参りました。しかし海上風並みが悪く、直にご当地へ入津することができず、平戸領の海上に乗り参り、山近く船を乗りかけそうになったので、是非無く、当月五日にそこへ碇をおろし、案内を乞う石火矢を打ちました所、即刻そこより番船を出していただき、おびただしく警固の上、挽船で送っていただき、今日ご当津へ挽き届けられました。平戸領へ滞船の間、水薪を少し申し請けましたが、ほかには何も申し請け致しませんでした。ソンクラーを出して以来、洋中に於いて変わったことはありませんでした。また何船にも行き逢うことはありませんでした。海上の風が不順で難儀した次第です。既に申し上げたように平戸領へ碇をおろしたほかには、日本の地はどこにも船を寄せたことはございません。ソンクラー仕立ての船は、私共の船一艘のみで、外に後続の船はございません。船頭周賓舎ならびに乗り渡ってきた船共に、去年の六十四番の船人でございます。次に今度普陀山へ船を寄せ、船頭が寧波へも上陸しましたが、何も変わったことは承っておりませんし、その時間もございませんでした。只大清諸省に変わったことはなく、何方も静謐であったほか、何事も承っておりません。もっとも、諸省共に米穀類の値段は下がって、諸所の人民は安堵しておりました。私共は出帆の事に取り紛ぎれ、日本人共をも乗せ渡ってくる支度に忙しく、委細の風聞を耳にする余裕も無く、出船を急いで渡ってきました。以上の様子を申し上げた外に申上げることはございません。
右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
戌七月九日 唐通事共
文責 奥村紀夫(JTBF 会員)