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バックナンバー 2020-06

唐船風説書

第39回 2020.6.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄八年(一六九五) 四十一番ソンクラー船の唐人共の口述

私共の船は、ジャバ国の内パッターニーと申す所の支配地ソンクラーで積荷を仕立てて渡海して参りました。もっともジャバ国の内とはいえ、パッターニーはシャム国に属しており、 シャムへ貢礼をしております。またソンクラーはパッターニーの支配地ですから、 パッターニーに貢礼しております。土地は広いのですが住民は野人の類で、ようやく数千人が住んでいる所でございます。私共の船は、当正月に寧波より商売の為に彼地へ渡り、この度唐人三十八人が乗り組んで、当六月十二日に私共の船一艘のみで出船し渡海して参りました。後続の船がもう二艘おりましたが、大方は本国福建の地へ帰帆の様子でございました。自然の成り行きで、福建で日本向けの荷物等が調えば来朝することも有り得ますが、はかり難いことでございます。 私共の船は上述の日限にソンクラーを出帆し、かねて宿願があったので、七月十二日に普陀山に船を寄せ、仏事を行い、殊に昨冬より契約しておいた糸端物等を積み乗せ、同二十八日に普陀山を出船しました。ところが逆風ばかりで殊の外難義しておりましたが、当月十一日十二日両日の間少々順風を得ましたので、ようやく凌ぎ渡ることができました。勿論直に入津する筈でしたが、夜前当湊沖で俄に逆風に成り、殊に潮が早く船を浅瀬に乗り上げそうになったので、一船の者共が驚き、是非なく大村領へ碇をおろしました。そこで案内を乞う石火矢を打ちましたので、即刻御番船が付いて厳重な警護のもとに、挽船で今日挽き届けていただきました。大村領へ碇をおろした以外、日本の地他所へ船を寄せたことはございません。また渡海の間海上で何船にも行き合うことはありませんでした。船頭陳四官は、去年三十八番船に乗り組んで来た者です。乗り渡って来た船は今度が初渡海でございます。

次に大清安否の様子ですが、先立って入津した船々より申し上げるべき事と存じ上げます。私共は早春よりソンクラーに滞留しておりましたので、今年の委細は存じておりません。ただ大清は何国も太平であり異変の沙汰はないと、普陀山で聞きました。また浙江表より奥国へ渡った商船も順次帰国し、日本向けの荷物が調えば来朝することもあるとの由、これも普陀山で聞きました。この外浙江の地で数艘の商船が渡海の準備をしているとの事も聞きましたので、順風次第追々渡海してくるものと思います。

さて又ジャバ国ならびにソンクラーの事、いよいよ以て例年の通り少しも変わったことは無く寧謐でございます。以上の趣旨の外は別に申し上げるべき事は少しもござません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 亥八月十六日       唐通事目付 唐通事共


元禄九年(一六九六) 七十三番ソンクラー船の唐人共の口述

私共の船は、去冬十二月十八日に広東の内南澳と申す所で、糸端物を積み込み、商売のためシャムの属国ソンクラーと申す所へ渡海しておりましたが、私共の船に先立ち広東福建浙江表より商船五六艘が渡海して商売を終えておりました。本よりソンクラーは小国ですから、積渡りの荷物を売り払うことも成しがたく、是非なく彼地へ滞船して、売れ残りの糸端物等を積み込んで、唐人四十六人が乗り組んで、当四月廿五日に類船無く、私共の船一艘ソンクラーを出船し渡海して参りました。彼地から本湊へ来朝の船は外にございません。その外他省より商売に来ていた船共も、皆々本国へ帰った筈でございます。私共の船は、上述の日限にソンクラーを出帆しましたが、海上で大風にあい、船道具等も損じ沈溺の危い状態になりましたが、運命つよく風難を遁れ、ようやく六月三日に普陀山迄乗り渡り、彼地へしばらく逗留し、船道具等も修復し、当月十一日に普陀山を乗り出した所で、本より古船の故か、又々洋中で船底から水が入りこみ、船中の者共が夜昼水を汲み出しておりました折り、当湊も近くなったところで、浸水が激しく直に湊内へ乗入れることが出来ず、是非無く一昨十六日に大村領へ碇をおろしました。そこで案内を乞う石火矢を打ちましたので、早速御番船が付いて、厳重な警護のもとに挽船で今日当湊へ挽き届けていただきました。その大村領に漂着した外、日本の地他所へ船を寄せた事はございません。勿論渡船の途中、海上で変ったことはございませんでした。本船頭李二官と乗り渡ってきた般共に、今度初めて渡海して参りました。脇船頭陳棟官は、去年五十一番船に乗り組んできた者です。

次にソンクラーの事、いよいよ例年の通り太平でございます。殊にシャムその外近隣の奥国何れも変わりなく、静謐との事承っております。シャム本湊よりもご当地へ商船が来朝する筈との事も承知しておりますが、船数の事は存じておりません。さて又私共の船は、去冬よりソンクラーに滞留しておりましたので、大清当年のは存じておりません。しかしこの間普陀山に滞留中、何国も太平であると承りました。普陀山自体も観音参詣の者共がおびただしく殊の外賑わしい様子でした。かつ又普陀山にも他省よりの商船が二三艘滞留しておりましたが、これらの船はご当地へ来朝の船では無いと承っております。以上の趣を申し上げましたが、他に申し上げるべき異説は少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 子七月十八日       唐通事目付 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)