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バックナンバー 2020-10

唐船風説書

第43回 2020.10.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄十二年(一六九九)五十三番 カンボジア船の唐人共の口述

私共の船は、元々寧波より当正月十八日に乗り出し、カンボジアへ商売の為に渡海しました。そしてカンボジアに於いて商売を終え、其のまま滞船し、カンボジア産出の荷物等を調達し、当六月十八日に、唐人数五十六人が乗り組んで、彼地を出帆し御当地を目指しました処、洋中の風並みが悪い為に、途中日数を費やし、八月十三日薩摩領に至ったところで逆風に逢い船も危い状態でしたので、船を軽くするため船上廻りに置いていた荒物を大分海に取り捨てて漸く風波を凌ぎ、是非無く京泊と申す所に碇をおろしました。其の節案内の為石火矢を打ちましたところ、早速警固船を差し出していただき、厳重な警護のもとに挽船で今日当津へ送り届けていただきました。この外日本の地は何国にも船寄せ致したことはありません。本船頭の劉三官ならびに脇船頭の陳二官は、去年四十番船に乗り組んで渡海して来た者です。乗り渡ってきた船は初めての渡海です。さて又当年カンボジアへ唐国より商売の為に七艘の船が乗り渡りましたが、五艘は本国に乗り帰りました。洪鍾官と申す者の船と私共の船二艘は、御貴国へ商売の為直に渡海して参りました。

現在カンボジア湊沖には賊船が多数滞船して居り、カンボジア往来の船を待ちうけて害を与えております。私共の船も先般カンボジア湊へ乗り入れた際、不慮にこの賊船どもに行き逢い、荷物等を大分押領されて随分難儀しましたけれども、命を害されることは無く、乗組の全員つつがなく賊共から遁れ、ようやくカンボジア湊へ船を乗り入れることができました。カンボジア国自体は変乱の沙汰も無く事静かでございます。賊船の頭領陳尚川と申す者へ、カンボジア通商の船より断りを入れ、向後は商船一艘あたり荷物を少し宛陳尚川方へ渡すので、害を加えないことと決まりました。従って、明年も唐国からカンボジアへの通商は継続するはずと存じております。かつ又大清十五省のこと、当春寧波出帆の時分に承ったところでは、いよいよ静謐でございましたが、それ以後のことは存じておりません。また広南国(注①)のこと、カンボジアの隣国でございますから交流もありこの国のことは大略承知していますが、唐国から伽羅木や鮫皮を調達するため商船が二艘到着したとのことでございます。この二艘はおそらく御当地へ赴くと推察しております。以上述べた以外には申し上げることは少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 卯九月三日       唐通事目付 唐通事共

注① 16~18世紀、ベトナム南部を実質的に支配した阮氏の独自政権。


元禄十二年(一六九九) 五十四番 シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャム王仕立ての船でございます。唐人数百十一人、外にシャム人二人、都合百十三人が乗り組んで、当六月九日シャムより出船しました。もう一艘シャム王仕立ての船が私共の船よりは数日先立って出帆しております。只今承ったところでは、薩摩領へ漂着して居るとのことでございます。この外シャムへ唐国より六艘、商売のため乗り入れており、二艘は御当地へ直に赴く船と承っております。四艘は直に本国へ乗り帰る筈の旨申しておりました。外におらんだ船一艘、シャムに於いて荷物を調達し御当地へ参る筈の船と承っております。このおらんだ船は、私共が出船するまでシャムに滞船しておりましたが、定めて乗り筋が良かった故、私共の船より先に御当津へ着船したと存じます。この度の渡海中、 風が不順でしたので洋中日数を費やし、ようやく薩摩領を見かけたところで、不慮に逆風に逢い、船も危くなりましたので、蘇木等大分海へ取り捨て風難を凌ぎ、八月十四日に是非無く薩摩領脇元へ碇をおろしました。その節案内のため石火矢を打ちましたので、早速番船を差し出していただき、厳重な警護のもと今日御当地へ挽いていただきました。薩摩領へ碇をおろした外に、日本の地何方へも船を寄せてはおりません。船頭王寛官は、八年以前シャム船で渡ってきた者です。乗り渡りの船は今度が初めての渡海です。

かつ又シャム国のこと、その外シャムに従っている奥国までも、変わったことはございません。大清のことは、数千里も離れていますので、安否の様子、委細には存じておりませんが、唐国より商売の為に渡ってくる船共より当春迄は十五省共に静謐であるとの由、粗々承っております。以上の外に申し上げるべき異説は少しもございません。

 右之通、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 卯九月三日   風説定役 唐通事目付 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)