Logo of JTBF
トップ・ページ  バックナンバー・リスト
文字サイズ: 

バックナンバー 2020-11

唐船風説書

第44回 2020.11.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄十二年(一六九九)六十三番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国王が仕立てた船でございます。唐人九十九人、外にシャム人三人、都合百二人が乗り組んで、当五月廿六日にシャムを出船しました。私共の船の外に、同湊より国王仕立ての船がもう一艘、後から出帆する用意をしていましたが、只今承ったところ、先に入津した五十四番船の由にございます。この外、唐国よりシャムへ商船六艘が参っておりましたが、内二艘は御当地で商売する意図を持っている由承わりました。残り四艘は本国へ直に乗り帰ると申しておりました。この度の渡海は特別風並みが悪く、思いの外日数を費やし、洋中に漂って居りましたが、八月八日に西北の風が烈しく吹き荒れたので、船を軽くするため上廻りに積み置いていた荷物等を大分海へ取り捨て、風波を凌いでおりましたところ、 翌九日に薩摩の山を見かけましたのは幸運でした。そこで案内を乞う石火矢を打ち屋久嶋へ碇をおろしました。早速警固船を差し出していただき、厳重にお守りいただきました。屋久嶋は荒波で船掛りが悪いので山川と申す所へ挽き移され、数日山川で風待ちして居りました。そうしている内、シャム人一人が不慮に船中で怪我をし、養生を続けましたが救い難く、同廿四日亡くなりましたので、山川において願書を差し出しそのまま山川へ葬りました。乗組百二人の内、以上申し上げたようにシャム人一人が亡くなり、残る百一人が挽船で今日挽き届けていただきました。このように薩摩領へ漂着した外には日本の地何方へも船を寄せたことはございません。船頭林楚官は去年四十三番船の事務方として参った者、乗り渡りの船もその節の船でございます。

さてシャム国ならびにシャム属国の奥国迄も、おおむね変わったことは無いとのことでございます。しかしながら支配下の国々、中天笠(注①)のことについては、何方も遠所でございますから、安否の委細を申し上げるのは難しいことでございます。唐国から商売のためシャムへ渡ってきた船々からの風聞では、当春迄は、大清諸省共に静謐であるとのことでございます。この外に申し上げることはございません。

 卯閏九月七日   風説定役
          唐通事目付
          唐通事共

注① 中天笠=中天竺 とすると、当時インド中央部がタイの支配下にあったということになり、船乗りの誤報ということになると思われる。この部分、石井米雄氏の「The Junk Trade from Southeast Asia」では何故か「Great Qing(大清)」と訳されている。


元禄十二年(一七〇一) 五十四番 パッターニー船の唐人共の口述

私共の船は、パッターニーと申す所で荷を仕立て、唐人八十人が乗り組んで、去年六月十二日にパッターニーを出船し、御当地へ赴きましたが、洋中において数度逆風に逢い、直接の渡海はが難しく成り、ようやく七月中旬に広東へ船を乗り入れたところで、もう逆風の時節に成ってしまったので、是非無くそのまま滞船し、当五月六日に広東を出船して渡海してきました。ところが当月十四日の夜、洋中において不慮の大風に逢い、あやうく沈溺そそうになりましたので、船上廻りの荷物等を海へ取り捨て、あとは運に任せて漂っておりました。そのうち、ようよう風も静まりましたので、風難を遁れることができました。総じて乗り筋が悪い中を渡ってきましたので、思いの外海上で日数を費やし、難儀しましたが、凌ぎ渡ることができました。それでも日本の地何国へも船を寄せることなく、 直に今日入津いたしました。本船頭徐悌官は、一昨年三十三番船の船頭をつとめて渡海して来た者、脇船頭呉尚官は、 十年以前に船頭として参った者でございます。乗り渡りの船は、初めての渡海でございます。

次に大清のことですが、去年私共が出船した時は国土静平でございました。近隣の奥国も、何方も寧謐で変乱の沙汰は承りませんでした。さてまた、去年広南で荷を仕立て御当地へ赴く筈の船が三艘ございましたが、これも逆風のため渡海が難しくなり、三艘共広東へ乗り入れ滞船しておりました。これらの船も当年御当地へ渡ってくるのか、そのことは私共の船が滞船していた湊より程遠くに居りましたので、判断出来ませんでした。この外シャム船が二艘、広東の内南澚と申す所へ漂着しておりました。一艘は彼地で商売を終えてシャムへ帰国しました。もう一艘は御当地へ渡海する筈でございます。ところが今日当湊沖で、私共の船の後から入津するのを見かけました。かつまた広東の内高州と申す所よりも商船が一艘荷を仕立て御当地へ渡海する筈との由を伝え聞きました。勿論福建省は広東よりずっと近くにございますから、諸所より商船が往来しますから消息を聞きますが、廈門や台湾からも御当地へ渡海する船が数艘ある由風のたよりに聞きました。大清は、諸省共にいよいよ静謐とのことでございます。以上申し上げた外は、別に異説はございません。

 右之通、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 巳六月廿二日   風読定役
          唐通事目付
          唐通事


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)