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バックナンバー 2020-12

唐船風説書

第45回 2020.12.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄十四年(一七〇一) 三十番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャムで仕立て唐人数百四人内シャム人三人が乗り組んで、去年五月廿四日にシャムを出船し、御当地へ渡海してくる筈でしたが、洋中において逆風に逢ったため、直に渡海してくることが難しくなり、ようやく七月下旬に、広東の内南澚と申す所に船を乗り入れました。その後次第に逆風の季節になってしまい、殊に大船で御座いますからいよいよ来朝ができ兼ねました故、 是非無くそのまま滞船しました。私共の外にシャムで仕立て、浙江の内寧波へ商売に来ていた船一艘が、これも洋中で逆風に逢い、私共が漂着していた同じ湊へ乗り入れておりました。この船は彼地で商売を終えて当春帰国しました。私共の船は当月朔日に南澚を出帆して渡海してきましたが、同四日の夜、洋中において思いの外の大風に逢い、船も危くなりましたので、船上廻りの荷物を海へ取り捨て、運に任せて漂っておりましたところ、幸い程なく風も静まり風難を遁れました。もっとも日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津いたしました。船頭徐位官は今度が初めての渡海、乗り渡ってきた船は一昨年の六十三番船でございます。

次にシャム国のこと、去年私共が出船した時分、国土は極めて静謐で御座いました。勿論シャム近隣の奥国迄も異変の沙汰は聞きませんでした。さて又去年広南で仕立て御当地へ赴く筈の船が三般、これも逆風に逢い広東の地に漂着していた由承りました。これらの船は当年御当地へ来朝したものかどうか、その段はわかりかねます。かつ又広東の内高州と申す所よりも、商船一艘御当地へ赴く筈とのことを伝え聞きました。当年もシャム国王仕立ての船が一二艘あるべきと推察しています。大清のこと、私共が南澚に滞船している間、いよいよ諸省共に寧謐であると風聞に承りました。右の趣旨の外に、別に変わったことは少しも御座いません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 巳六月廿ニ日   風説定役
          唐通事目付
          唐通事共


元禄十六年(一七〇三) 六十[九]番 シャム船の唐人共の口述(注①)

私共の船は、シャム国王仕立ての船で、唐人数七十四人、外にシャム人三人、都合七十七人が乗り組んで、当五月十九日シャムを出帆し渡海して参りました。私共の船に先立って、シャム国王仕立ての船二艘が御当地へ赴いております。ただ今お聞きしたところ、この二艘共に未だ入津していないとのことで御座います。定めて乗り筋が悪く遅れているのでしょう。さて又大溝の諸省より、去年商船十艘程シャムへ参っておりました。これらの船は商売を終え順次本国へ帰りました。その内御当地へ赴いてくる船も有るのではないかと存じます。その外シャム属国の所々より、商船仕立ての様子は聞いておりませんが、湊の数も多く御座いますから、俄に仕立ての船が有るかもしれず、その段ははかり難いことでございます。私共の船が今度渡海してくる途中、洋中の風が不順で日数を費やし、あまつさえ六月廿二日大風に遙い殊の外難儀しましたので、船上廻りに積み置いていた荷物を少々海へ取り捨て、運に任せ漂っておりましたところ、神明の御加護で、つつがなく船を乗り切ることができました。もっとも日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津いたしました。船頭郭隆官ならびに乗り渡ってきた船共に、今度が初めての渡海でございます。

次にシャムのこと、当春新国王への譲位が有り(注②)、いよいよ静謐で御座います。その外の属国迄も変わったことは御座いません。しかしながら広南やリゴールでは、当春少々騒乱があったとの風聞がございましたが、ほどなく静まったとの由を伝え聞きました。もっとも委細は存じておりません。かつまた、ジャカルタよりオランダ船二艘、シャムへ乗り入れておりましたが、これら二艘共に彼地の荷物を積み添えて、御当地へ赴く筈の由と承知しております。ジャカルタも変わったことは無いと伝え聞いておあります。もっとも大清の安否は、遠境の地で御座いますから存じておりません。以上の外別に申し上げるべき異聞は少しも御座いません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 未七月八日    風説定役
          唐通事目付
          唐通事共

注① 元禄十四年(一七〇一)から元禄十六年(一七〇三)に飛んでいる。元禄十五年(一七〇二)は「華夷変態 巻二十九」であるが、この巻には東南アジアからの来歴は一切無い。

注② アユタヤ王朝31代ペートラーチャーが退位し32代スリエーンタラーティボーディーが継位した。スリエーンタラーティボーディーは気性が荒くスア王(虎王)とあだなされた。なお、著名なナーラーイ王は30代である。 


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)