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バックナンバー 2021-02

唐船風説書

第47回 2021.2.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


寛永元年(一七〇四) 八十番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国王仕立ての船で、唐人数七十六人、外にシャム人三人、都合七十九人が乗り組んで当五月廿日にシャムを出帆して渡海して参りましたが、七月廿四日に洋中に於いて大風に会い沈溺寸前の危い状態になり、殊の外困難な状態だったので、船を軽くする為荒物類の荷物を大分海へ取り捨て、運に任せ漂っておりましたところ、漸く風も静り命は助かりましたが、逆風ばかりで自由に船を乗りこなせず、加えて同廿七日に山を見損じ、高麗の地へ碇をおろし、順風を待ち合わせ、当月十五日に高麗の地を乗り出したところ、又々同十七日逆風に会い、是非無く平戸領小牧崎と申す所へ漂着しました。尤もその節案内を乞う石火矢を打ちましたところ、早速警固船を差していただき、厳重な警護のもとに挽船にて今日御当津へ迭り届けていただきました。以上両所へ漂流した外、日本の地は他所へも船を寄せたことはございません。船頭郭陸官と乗り渡ってきた船は、共に去年六十九番の船人でございます。

次にシャムのこと、いよいよ静謐でございます。その外近隣の奥国迄も、変乱の沙汰はかつて聞いておりません。さてまた、当夏私共の船に先立って、シャム国王仕立ての船が一艘ご当地へ向かいましたが、只今承ったところでは恙無く到着した由にございます(注①)。さらに後から来る船がもう一艘ございました。この船も私共の船がシャム川口迄乗り出して居った時に出帆しましたが、梶を損じてしまい、殊に大船でございましたから梶を修補すれば日数を要する筈です。たとえ再び出船しても最早逆風の季節でございますから、広東福建表に乗り入れ、滞船を余儀なくされたことでしょうから、当年来朝ははかり難いことでございます。その外の奥国から商船を仕立てることは聞いておりません。シャム表の消息は、先船の唐人共が申し上げたことと存じます。この外別に申し上げるべきことはございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 申八月廿七日    風説定役
           唐通事目付
           唐通事共

注① この八十番船より先に入津したシャム船があるように読み取れるが、「華夷変態」の同年の記録には残っていない。


寛永四年(一七〇七) 七十九番 シャム船の唐人共の口述(注②)

私共の船は、シャム国王の仕立てで、唐人数七十八人が乗り組んで、当五月廿八日に類船三艘、私共の船と合わせ四艘が同日に彼地を出帆して渡海して参りました。只今承りましたところ、右の類船は未だ入津していないとのこと、定めて程無く追々来着するものと存じます。私共今度の渡船の内、洋中変わったことがございませんでした。日本の地は何国へも舶を寄せることなく、直に今日入津いたしました。船頭王定官と乗り渡って来た船は、共に去年八十番の船人でございます。

次にシャムのこと、例年の如く別して静謐でございます。その外近隣の奥国迄、異変の沙汰はかつてございません。シャム属国で仕立てた船のことは承っておりません。大清の諸省より商売の為シャムへ渡っていた船共も、皆々本国へ乗戻りました。この船共の内、直にご当地へ赴く船があったかどうか、その段ははかり難いことでございます。さて又シャム川口で、ご当地へ赴く筈のおらんだ船一艘、遠々見かけました。却ってその船が先立って来朝しており当湊内で見かけましたから、様子は彼船より申し上げていると存じます。以上の外、別に申し上げるべきことは少しもございません。

右之通、唐入共申匪に付、書付差上申麻、以上。
亥七月廿八日     風説定役
           唐通事目付
           唐通事共

注② 年数をみると1704年から1707年まで三年の空白がある。これが何を意味するか興味深いことである。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)