Logo of JTBF
トップ・ページ  バックナンバー・リスト
文字サイズ: 

バックナンバー 2021-04

唐船風説書

第49回 2021.4.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


寛永五年(一七〇八 百四番 カンボジア船の唐人共の口述

私共の船は、カンボジアで仕立て、当六月二日彼地を出帆致し渡海して参りましたが、海上不順の為、直接渡海して参ることは難しく、是非無く八月十八日普陀山へ乗り入れました。船道具等は悉く損傷し、船も大船でございましたので、彼地で船を乗り替え、カンボジア出産の荷物を積み替え、当月二日に唐人数三十三人が乗り組んで、普陀山を出船して渡って参りました。当年カンボジア仕立ての船は他にございません。私共今度渡船の途中、洋中で変わったことはございませんでした。日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭鄭裕官と乗り渡ってきた船共に、初めての渡海です。

次に大清のこと、諸省共別して太平とのこと、普陀山で承りました。さて又カンボジア其の外近隣の奥国迄も、 変乱の沙汰はございません。以上の外、別に申し上げるべきことはございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 子九月十九日    風説定役
           唐通事目付
           唐通事共


寛永六年(一七〇九) 五十三番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国王出立ての船で、唐人数六十五人、外にシャム人二人、都合六十七人が乗り組んで、当六月一日シャム川口迄乗り出し、風を待って同十八日に川ロを出帆致し渡海して参りました。シャムよりは別に後船はございません。去年シャム船が一艘御当地へ赴きましたが、その節風が不順であったので、広東の内南澳と申す所へ漂着致し、その後帰船したと伝え聞いております。この船は当年は御当地へ参るはずと存じております。私共の船、この度渡船の途中、洋中で変わったことはございませんでした。また、日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭徐澤官は、一昨年八十二番船の庶務役を務めた者、乗り渡ってきた船は、去年の百番船でございます。

次にシャムのこと、いよいよ静謐でございます。その外の属国辺土迄、異変の沙汰はかつてございません。且つまたシャムより御当地へ赴くおらんだ船が一艘、私共の船に先立って彼地を出船しましたので、程無く来朝することと存じます。以上の外、別に申し上げるべきことは少しもございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 丑七月廿日     風説定役
           唐通事目付
           唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)