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バックナンバー 2021-05

唐船風説書

第50回 2021.5.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


寛永六年(一七〇九) 五十五番 パッターニー 船の唐人共の口述

私共の船は、去年十二月十八日寧波よりパッターニーへ渡海滞船して、彼地に出産する荷物を調達し、唐人数三十七人が乗り組んで、当七月二日にパッターニーを出帆して、八月十五日舟山へ船を寄せ、同廿四日舟山を出船して渡海して参りました。パッターニーからは外に後続船はございません。もっとも寧波よりパッターニーへ渡海してきた船が一艘ございましたが、本国へ乗り帰りました。かつまた厦門より御当地へ赴く筈の船が一艘、洋中で風が不順のため、御当地へ乗り渡るのが難しい由にて舟山へ乗り入れました。この船は舟山で荷物を売り払い、本国へ帰る筈でございます。その外奥国から渡海してくる船は承っておりません。私共今度渡船の途中、洋中で変わったこともなく、日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭林賓生は、去年二十六番船の船頭として渡海して参った者、乗り渡ってきた船も、同年の四十七番船でございます。

次に大清の事、 諸省共にいよいよ静謐との事、この度舟山に滞船中に承っております。パッターニーやその外の奥国も太平でございます。さて又当春中寧波南京より御当地へ渡海して商売を済ませ、当夏帰帆した船の内、五番船は寧波湊口で破船し船人共に沈没し、ようやく水主二人が助りました。九番船は洋中で賊船に逢い、荷物を奪い取られましたが、船人だけは別条無く遁れ帰りました。その外の船共は恙無く帰着しました。以上の外に異説は少しもございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 丑九月十五日    風説定役
           唐通事目付
           唐通事共


寛永七年(一七一〇) 三十七番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国王仕立ての船で、唐人数六十七人、外にシャム人三人、都合七十人が乗り組んで、当六月二日に彼地を出船して渡海して参りました。シャムよりは後続の船が一艘ございます。この船は私共が出船の折り、荷物を積み込み準備していましたから、用意が整い次第渡海してくると思われます。もっとも、大清の地よりシャムへ渡海してくる商船はございますが、皆々本国へ乗り帰ります。かつまた、御当地へ赴く筈のオランダ船が一艘、私共が出船した二日前にジャワから参り、シャムへ乗り入れました。この船は六月中旬頃には、出船でたと思われます。私共この度の渡海中洋中で変わったこともなく、日本の地何国へも船を寄せず、直に今日入津しました。船頭徐轄官は、六年前五十二番船の庶務役として渡海してきた者です。乗り渡ってきた船は、初めての渡海でございます。

次にシャム国王の事、去年前国王が卒去し(注①)、ただ今の新国王は殊の外政道よろしく国民への憐愍に厚い方でございますから、シャムは申すに及ばず、その外の奥国迄も別して静謐でございます。さてまた、カンボジアより御当地へ赴いた船が一艘ありと聞いていましたが、ただ今承ったところ、先に着津したとのことでございます(注②)。その外の奥国より渡海してくる船のことは存じておりません。以上の外に申し上げることはございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 寅七月十六日     風説定役
            唐通事目付
            唐通事共

注① 1709年にアユタヤ王朝はサンペット8世からサンペット9世に治世が代わっている。
注② この年、カンボジア船の到来は記録されていない。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)