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バックナンバー 2021-06

唐船風説書

第51回 2021.6.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


正徳元年(一七一一) 四十七番 シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャム国王仕立ての船で、唐人数百八人外にシャム人十三人都合百二十二人が乗り組んで、昨年六月五日にシャムを出帆して、御当地を目指して渡海して参りました。ところが八月五日に厦門近くにて不慮の大風に会い、帆ならびに船底を損じてとても危険な状態でございました。しかし、運良く風難を遁れようやく厦門へ船を乗り入れる事ができました。そして彼地にて船を修復している内に、渡海の時節をのがしてしまい、是非無く厦門へ滞船して、当年六月二日に上記の人数が乗り組んで、厦門を出帆致しました。もっとも日本の地は何国へも船を寄せること無く、直に今日入津致しました。厦門からは私共の船に先立って御当地へ赴いた船が三艘ございましたが、只今承ったところ、皆々恙無く来着した由にございます。船頭徐澤官は、一昨年五十三番船の船頭を務めた者でございます。乗り渡ってきた船は、六年前の七十一番船でございます。

次にシャム国のこと、去年私共が出帆した時は安穏でございましたが、当年の安否は存じておりません。さて又厦門に滞船中、大清諸省の様子を承りましたが、何方も寧謐とのことでございました。殊に康煕帝治世が五十年に及び、太平の祝賀として年貢運上等が宥免になり、官民共に悦び合っている事でございます。これ等のことは、先船の唐人共が詳しく申し上げていることと存じます。この外に申し上げることは少しもございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 卯七月七日


正徳元年(一七一一) 五十三番 シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャム国王仕立ての船で、唐人数七十二人が乗り組んで、当五月十八日彼地を出帆致し渡海して参りました。シャムから後続の船がもう一艘ございましたが、先程当湊沖にてこの後続船を見かけましたから、程無く入津することと存じます。今度渡船の途中、洋中で変わったことはございませんでした。また日本の地は何国へも船を寄せること無く、直に今日入津いたしました。船頭陳白官は昨年三十七番船の庶務役を務めた者でございます。乗り渡ってきた船は、五年前の八十二番船でございます。

ところで、一昨年シャム国王仕立ての船で、船頭周亨官と申す者が寧波へ乗り渡り、彼地にて商売を終え、昨年二月下旬に帰国の折り、風が不順だった為同年五月にカンボジアに乗り入れようとしましたが、大船のために渡海成り難く、カンボジア国王が小船に荷物を積み移して、シャムへ送り返しました。ところがパッターニー、ジョホールと申す所の海辺を航行中に、荷物を悉く奪い取られました。商人でございますから手向いも成り難く、ようやく一命を助かったのは幸いでございました。乗組の者共皆々シャムへ帰り着き、いきさつをシャム国王に訴え申しました。もっとも、ジョホールと申す所はジャバ国内にてございますが、パッターニーは古来よりシャムに属している国でございますから、理不尽の仕方をいたした由、シャム国王殊の外立腹になり、シャム属国のリゴール国王と申し合わせ、パッターニーならびにジョーホールを攻略することに定め、当年正月に兵船百艘を整え、軍卒を差し向けられました。ただ私共の出船の時迄は、如何様な成行であったか知る由もございませんでした。その外の奥国は何方も太平でございます。以上の外に申し上げるべきことは少しもございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 卯七月十三日


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)