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バックナンバー 2021-07

唐船風説書

第52回 2021.7.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


正徳元年(一七一一) 五十四番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国王仕立ての船で、唐人数六十九人、外にシャム人三人、都合七十二人が乗り組んで、当五月十九日彼地を出帆致し渡海して参りました。シャムより別に後続船とてもございません。もっとも私共に先立って、御当地へ赴いた船が一艘ございましたが、この船は先に入津した由にございます。その外奥国より仕立てた船の様子は承っておりません。私共この度渡船の途中、洋中で変わったことはございませんでした。日本の地は何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭黄傳官は、二十年前に船頭として渡海して参った者、乗り渡ってきた船は、一昨年の五十三番船でございます。

さて、シャムより一昨年寧波へ商船一艘が渡って帰国の節、パッターニーおよびジョホールの海辺で荷物を奪い取られた件で、シャム国王が立腹し、兵船を両所へ差し向けられましたけれども、定めて先船の唐人共が申し上げたことと存じますので、重ね申し上げるに及ばないことでしょう。この外、変わったお知らせは少しもございません。

    右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
    卯七月十三日 名例の如し


亨保二年(一七一七) シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国王仕立ての船で、去年四月六日彼地を出船致し、六月二日に洋中に於て逆風に逢い、広東の内南澚と申す所へ乗り入れ、同十日に南澚より乗り出し、七月十五日に浙江の内船山へたどり着き、滞船しておりましたが、次第に逆風の時節になり、大船では御当地へ乗り渡るのが難しい故、舟山に於て別の船に借り替え、シャムより積んできた荒物類の荷物も、小船には積み切ることができなかった為、彼地に於て過半売り払い、残った荷物を積み込み、あわせて端物人参等の品々、船山にて買い調えた物も積み添え、唐人数五十六人が乗り組んで、十二月二日舟山より出船、その日の内普陀山へ船を寄せ、即日普陀山を乗り出しました。同十一日に於て洋中大風に逢い、梶を流し帆柱をも損じましたので、荷物を大分海へ取り捨て、運をまかせて漂っている内、ようやく船山の内石浦と申す所へ乗り戻り、船具修復を加え、当正月六日石浦より出帆致し、日本の地何国へも寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭林略観は、十二年前三十四番船で庶務役として渡ってきた者、乗り渡ってきた船は初めての渡海でございます。さて又シャムより国王仕立ての後続船が一艘ございまして、私共出船の時、渡海の用意をしておりました。しかしながらこの船何方へ乗り参ったものか、いまだ消息を承っておりません。

ところで御当地より信牌(注①)をいただき、帰唐致した三十八番寧波船の船頭林特夫が、この度私共の船で乗り渡ってきました。この者は、寧波に於て一昨年信牌を布政司方へ取り納めましたので、御当地へ渡海できなくなり、去年正月バタビアへ赴いたところ、広東の南澚にて船が破損してしまい、乗り組みの内溺死も三人有り、残った者共は露命を助り、皆々本国福州へ帰国しました。林特夫自身は、南澚に留り居りましたが、渡世の方便も成り難かった故、私共の船に便を乞い、船山へ帰りたい由を申すので、乗せ渡しました。ところが船山で伝え聞いたところ、一昨年御当地より信牌をいただき、帰唐致した寧波南京四十二艘の船頭共が、去年浙江の撫院より朝廷へ奏聞を遂げられましたので、北京戸部尚書に於て又は九卿詹事科道の諸官が会議を持つに至り、これらの諸官より議奏もなされましたが、今以って勅裁も無しとの由にて、船頭共皆々殊の外心配しております。殊に康熙帝が去年十一月に湯治の為関外に臨行され、定めて十二月末には還御なされるやと申す状況です。この通りいまだ決断が得られない状況で、林特夫もいよいよ以って渡世の道がとざされました。これに依り林略観も久しく御当地への渡海がかなわず、不案内になってしまったので、是非にと勧めこの度連れ渡ってきました。(以下次回配信に続く)

注① 信牌(しんぱい)とは、1715年2月14日(正徳5年1月11日)に制定された海舶互市新例によって、中国(清)船に持参が義務付けられた、長崎への入港許可証である。
当時日本からの輸出品は少なく、大幅な入超の状態であり、対価として支払う金銀は莫大な量に上っていたことが背景にある。一方中国では、伝統的に信牌とは朝貢国に対して与えるものであり、日本に朝貢したかのように見えるため、結果として清朝政府は信牌を没収し、一時貿易が停滞した。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)