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バックナンバー 2021-08

唐船風説書

第53回 2021.8.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


亨保二年(一七一七) シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国王仕立ての船で、去年四月六日彼地を出船致し、六月二日に洋中に於て逆風に逢い、広東の内南澚と申す所へ乗り入れ、同十日に南澚より乗り出し、七月十五日に浙江の内船山へたどり着き、滞船しておりましたが、次第に逆風の時節になり、大船では御当地へ乗り渡るのが難しい故、舟山に於て別の船に借り替え、シャムより積んできた荒物類の荷物も、小船には積み切ることができなかった為、彼地に於て過半売り払い、残った荷物を積み込み、あわせて端物人参等の品々、船山にて買い調えた物も積み添え、唐人数五十六人が乗り組んで、十二月二日舟山より出船、その日の内普陀山へ船を寄せ、即日普陀山を乗り出しました。同十一日に於て洋中大風に逢い、梶を流し帆柱をも損じましたので、荷物を大分海へ取り捨て、運をまかせて漂っている内、ようやく船山の内石浦と申す所へ乗り戻り、船具修復を加え、当正月六日石浦より出帆致し、日本の地何国へも寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭林略観は、十二年前三十四番船で庶務役として渡ってきた者、乗り渡ってきた船は初めての渡海でございます。さて又シャムより国王仕立ての後続船が一艘ございまして、私共出船の時、渡海の用意をしておりました。しかしながらこの船何方へ乗り参ったものか、いまだ消息を承っておりません。

ところで御当地より信牌(注①)をいただき、帰唐致した三十八番寧波船の船頭林特夫が、この度私共の船で乗り渡ってきました。この者は、寧波に於て一昨年信牌を布政司方へ取り納めましたので、御当地へ渡海できなくなり、去年正月バタビアへ赴いたところ、広東の南澚にて船が破損してしまい、乗り組みの内溺死も三人有り、残った者共は露命を助り、皆々本国福州へ帰国しました。林特夫自身は、南澚に留り居りましたが、渡世の方便も成り難かった故、私共の船に便を乞い、船山へ帰りたい由を申すので、乗せ渡しました。ところが船山で伝え聞いたところ、一昨年御当地より信牌をいただき、帰唐致した寧波南京四十二艘の船頭共が、去年浙江の撫院より朝廷へ奏聞を遂げられましたので、北京戸部尚書に於て又は九卿詹事科道の諸官が会議を持つに至り、これらの諸官より議奏もなされましたが、今以って勅裁も無しとの由にて、船頭共皆々殊の外心配しております。殊に康熙帝が去年十一月に湯治の為関外に臨行され、定めて十二月末には還御なされるやと申す状況です。この通りいまだ決断が得られない状況で、林特夫もいよいよ以って渡世の道がとざされました。これに依り林略観も久しく御当地への渡海がかなわず、不案内になってしまったので、是非にと勧めこの度連れ渡ってきました。(以上前回第52回 2021.7.1 配信 から再掲)

一昨年シャム船二艘が御当地へ渡海して参りましたが(注②)、その内、郭天玉船は破損してしまいましたので、去年御当地より帰帆の節、顔諭臣船に便を乞い、一緒に帰国致しましたが、その節逆風になっていたので、直にシャムへ乗り帰り難く、広東へ乗り入れ、滞船していた由にございます。その間、この郭天玉は、広東より舟山へ用事のため渡って居りました。私共もこの二艘のシャム船が、去年帰国しなかったのを心配しておりましたが、舟山に於いて思いも寄らず郭天玉に会った次第です。もっとも顔論臣船は、昨年秋迄広東城下に滞在していた由にございます。郭天玉は、私共がシャムより乗り渡ってきた本船が、舟山に留め置かれておりましたので、この船で当月中にシャムへ乗り帰るはずでございます。さて御当地に於いては、一昨年より御新例を以って、約條ならび信牌等を御与えなされる事になっております。私共がシャムを出船した時迄、国王へも知らされておらず、私共もこの度舟山に渡ってきて、委細を承知した次第です。この故舟山から御当地へ渡海することは躊躇される事でしたが、既に国王より御当地へ参り商売するよう申し付けられておりますので、途中から帰国することは国王の存念に違い後難も計り難く、元より御新例を承り及ばなかった上は、このような事情を訴え申し上げ、商売も御免蒙るべきと存じながら渡海して参ったこと、偏えに御賢察を仰ぐ次第でございます。

シャムの事、国中は変わったこともございません。しかしながら属国カンボジアの両国王、山王水王と申し近縁の二人ですが、去る甲午年(1714)、山王の臣偓雅洪之官で呉達舎と申す者の勧により、山王が水王に敵対することになりました。そこで水王は広南国へ援兵を求め、広南王より惣兵の官陳氏と翁氏両営の兵を進め、山王を攻め討ちました。山王方は敗軍に及び、翌未年(1715)正月に、山王ならびに呉達舎は共にシャムへ逃げ去りました。その後呉達舎も、去年正月にシャムに於いて病死しました。これに依りシャムより人を遣し、カンボジアの消息を尋ねた折り、カンボジアに存命していた山王の父王より申し出があったのは、元来呉達舎反逆の為このような国乱となったが、前々の通りシャムへ貢納いたし、和睦の扱いにすべきとの由にございました。しかしながらシャム王は殊の山王を支持申され、去年三月にシャムより大象百疋、数千の兵卒を以って、 陸路より直にカンボジアの黄杲と申す所へ攻め入りました。これに対し水王は防守の兵を国境へ出し、堅固に応戦しましたので、シャム王大いに怒を発し、重ねて水陸両手より兵を進められた由、私共出船の時に聞きましたが、その後の様子は存じておりません。そのほか大清の事は、諸省共にいよいよ静謐の様子、舟山に於いて聞きました。以上申し上げた外、 変わったことはございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 酉正月廿六日    風説定役  頴川四郎左衛門印
           唐通事目付 彰城節右衛門印
           同     西村作平次印
                 唐通事共

注① 信牌(しんぱい)とは、1715年2月14日(正徳5年1月11日)に制定された海舶互市新例によって、中国(清)船に持参が義務付けられた、長崎への入港許可証である。
当時日本からの輸出品は少なく、大幅な入超の状態であり、対価として支払う金銀は莫大な量に上っていたことが背景にある。一方中国では、伝統的に信牌とは朝貢国に対して与えるものであり、日本に朝貢したかのように見えるため、結果として清朝政府は信牌を没収し、一時貿易が停滞した。

注② 「華夷変態」は1713年閏5月5日から1716年2月23日まで空白である。おそらく上記海舶互市新例に関係していると思われる。従ってこの間に渡海してきたシャム船二艘の口述記録も残っていない。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)