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バックナンバー 2021-09

唐船風説書

第54回 2021.9.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


亨保二年(一七一七) 二番 シャム船の唐人共の口述(注①)

私共の船は、シャム国王仕立ての船で、唐人数九十九人が乗り組んで、当五月廿一日彼地を出帆致し渡海して参りましたが、洋中風が不順でございました故殊の外日数を要し、加えて七月廿四日逆風に逢い、是非無く薩摩領長嶋と申す所へ漂着致しました。その節相図の為石火矢を打ちましたところ、彼地より早速警固船を差し出していただき、厳重な警固のもと、挽船を以って今日ご当地へ迭り届けていただきました。この薩摩領へ漂着した以外に、日本の地他所へ船を寄せたことはございません。船頭郭突周は、今度初めての渡海でございます。乗り渡ってきた船は、一昨年の七番船でございます。ところで、一昨年ご当地へ渡ってきた船頭顔諭臣のシャム船ですが、去年春ご当地より帰帆の途中、逆風の時節になったので、直に帰国することが出来ず、広東へ乗り入れ滞船、当二月十五日にシャムへ帰船しました。その顔諭臣が病氣になってしまったので、国王から私へご下命があり、顔諭臣に替ってご当地へ商売の為渡海するようにとのことでした。もっともご当地ご新例の訳ならびに信牌をお与えになられる様子は、顔論臣が帰着して始めて国王へお伝えしておりましたので、顔謙臣が持っていたご当地の信牌を、国王から渡されこの度持って渡海して参りました。且また一昨年の船頭郭天玉のシャム船、ご当地で破船致しましたので、顔諭臣船に便を乞い、これ又同様にシャムへ帰着しましたが、郭天玉もまた病氣になり、当年はご当地へ渡海することができません。但去年シャムよりご当地へ赴いた船が二艘ございましたが、その内徐魁観と申す者の船は、同七月頃広南で少々船を損じたとも、または破船致したとも、風聞がございましたが、私共が出船した時点では、実否は分りませんでした。しかしながら若しこの船が大破していなければ、彼地で修覆し本国へ乗り帰り、重ねてご当地へ渡海してくることも有るかと存じます。また林略観と申す者の船は、広東へ乗り入れたと伝え聞きましたが、只今承ったところでは、当正月にご当地へ渡海してきて、しかし信牌が無かったのでご積み戻しになられた由にございます。(注②)

次にシャムのこと、国中静平でございます。去る甲午年(注⑶)属国カンボジアの両国王、山王水王と申しますが、元来縁者でございましたが、山王の臣偓雅洪の官で呉達舎と申す者の勧により両国王が闘争に及び、却って山王方が打ち負け、翌未の正月に、山王ならびに呉達舎共にシャムへ落ち逃れました。もっとも呉達舎はシャムで病死しました。これに依りシャム王は山王の味方を致され、去年三月頃数千の軍卒を率いて、国境黄杲と申す所へ差し向けましたところ、水王も防御の備えがありました。そうしているところに、その時分黄河の水が溢れたため、攻戦成り難く兵を引き取りました。なおまた当四月にもシャムより兵を起しましたが、大水が出る時節の出兵だった故、当八九月の間に、重ねて兵を出す筈の評議でございました。ただし私共は商人でございますから、以上の取合微細には存じません。このカンボジア変乱の為、諸方よりの商船も少なくなり、交易の荷物も払底し、奥国何方も衰弊の様子にございます。以上申し上げた外、別に変ったことはございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 丑九月十五日    風説定役
           唐通事目付
           唐通事共

注① 「華夷変態」は35巻から成るが、その続編ともいわれるのが「崎港商説」で3巻から成る。前回配信で「華夷変態」からの紹介は終わり、今配信から三回にわたって「崎港商説」からの紹介になる。

注② 前回第53回配信参照。

注⑶ 1714年


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)