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バックナンバー 2021-10

唐船風説書

第55回 2021.10.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


亨保三年(一七一八) 二十三番 シャム船の唐人共の口述(注①)

私共の船はシャム国王仕立ての船で、唐人六十二人外にシャム人ニ人都合六十四人が乗り組んで、当五月廿九日彼地を出帆して渡海致して参りましたが、洋中風が不順で七月九日に廈門の外海で停泊風待ちをしていた折、順風になったので即日乗り出しました。しかしながらその後洋中逆風ばかりで、思いの外日数を費やしましたがようやく凌ぎ渡り、日本の地何国へも船を寄せず、直に今日入津致しました。さて去年御当地へ渡海してきた二番シャム船ですが、 当三月廿一日にシャムへ恙なく帰着しました。当年はシャムより郭天玉が渡海して参る筈でしたが、病気の為渡海できず、それに就いてこの度の船頭胡應候と申す者が、国王より申し付けられ、郭天玉へお与えなされた信牌を持って渡海して参りました。さて又去年乗り渡ってきた船で渡海して参る筈でございましたが、船が修理に仕掛って間に合わず、そうなると渡海が延引になるので、年々広東へ往来している小船で乗り渡って参りました。右船頭ならびに船共に、初めての渡海でございます。

次にシャムのこと、国中は静平でございますが、去る甲午年(注②)シャムの属国カンボジアの両国王、山王水王と申しますが、元来縁者でございましたが、山王の家臣偓雅之官呉達舎と申す者の勤めにより両国王が闘争に及び、却って山王方が打ち負け、翌年山王ならびに呉達舎共にシャムへ落ち延びて来ました。もっとも呉達舎はシャムで病死してしまいました。これに就いてシャム国王は山王の味方を致され、数千の軍卒を国境黄杲と申す所へ差し向けましたが、水王にも防禦の備えが有り、また広南王も荷担致しており、数度交戦が有りましたがいまだに静りません。私共の船がこの度広南の海上を乗り渡って来た時、シャム船と見かけ石火矢を打ちかけてきました。折節程遠くにあって殊に順風でございましたので、恙無く乗り通ってきました。かつまた広南の海上でバタビア旗を立てた唐船一艘に程近く行き会いました。何方へ参る船なのかと尋ねましたところ、長崎へ渡る船と申しておりました。ただし船頭は誰と申すか承りませんでした。その後この船は遂に見かけませんでした。以上のほか、別に申し上げるべきことは少しもございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 戊八月十日     風説定役
           唐通事目付
           唐通事共


注① 前回配信で注記したが、前回から「華夷変態」の続編ともいわれる「崎港商説」からの紹介である。
注② 1714年


亨保四年(一七一九) 二十六番 シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャム国王仕立ての船で、唐人九十八人外にシャム人三人都合百一人が乗り組んで、当六月十三日シャムを出帆して渡海して参りましたが、当月五日福州の海上で唐船の船具ならびに死骸五つ流れているのを見かけました。そのほかは順風で順調に渡ってきましたが、同九日五嶋を見かけた所で風が不順になりこの間海上に漂っておりましたが、また順風を得ることになり、日本の地何国へも船を寄せず直に今日入津しました。船頭郭子蜚は初めての渡海、乗り渡ってきた船は、一昨年の二番船でございます。ただし一昨年二番シャム船の船頭頭郭奕周は去年正月ご当地を出帆し、その節信牌をいただき帰国しましたが、郭子蜚は郭奕周の甥でございますから、その信牌を譲り受けこの度持ち渡って参りました。勿論郭奕周もこの船で渡って参りました。

次にシャム国のこと、国土太平でございますが、シャムの属国カンボジアの両国王、山王水王、五六年前より不和になり、既に闘争に及んでいましたが、山王方が打ち負けシャム国へ出奔致され、それ以来シャムへ在留されていましたが、水王方より山王と和睦致したい旨、シャム国王へ使者を以って頼み入ましたところ、シャム国王はそれを受け入れ、重ねて和睦の使者を差し越す様に申し付けられ、使者は帰国しましたがいまだに水王方より和睦の使者は参っておりません。さて又ジャワ国の目投覧(注⑶)と申す所は、オランダの支配地でございますが、両三年以来(オランダに)叛いておりましたが、当年四月バタビアオランダ方より兵船を差し向けられた由、バタビアへシャムより渡った商船が帰着した折り伺いました。かつ又昨年シャム国王仕立ての船でご当地へ渡海致した船頭胡應侯のこと(注④)、何方へ乗り参ったものか未だシャムへ帰着しておりません。以上申し述べた以外別に申し上げるべきことがございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 亥七月十五日    風説定役
           唐通事目付
           唐通事共


注③ 現在のインドネシア、マドゥラ島(スラバヤに隣接)
注④ 前項 亨保三年(一七一八) 二十三番 参照


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)