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バックナンバー 2021-11

唐船風説書

第56回 2021.11.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


亨保七年(一七二二) 二番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、南京の内上海で荷を仕立て、唐人五十七人が乗り組んで、当月六日上海を出帆致し、日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。本船頭陳煥卿は初めての渡海、脇船頭徐元読は一昨年年三十番シャム船(注①)で渡海してきた者、乗り渡ってきた船は、同年十八番船でございます。私共出船の時、沈右祉と申す者の船が上海より出船しご当地へ向かいましたから、この船も近々入津するものと思われます。さてこの陳煥卿が持参して参った信牌は、四年前亥年二十六番シャム船乗り組みの郭奕周へ与え遊ばされた信牌でございます。郭奕周は翌子年十二月にご当地より直にシャムへ帰国致しました。もっとも当寅年渡海予定の信牌でございましたが、シャム仕立ての船は近年ご当地よりの帰帆が延引致し、洋中風が不順のため度々往来が滞ります。これにより国王が申し付けられたのは、郭奕周へお与え遊ばされた信牌は、当虎年の渡海に有効の筈でございましたが、早めて去丑年ご当地へ渡海するようにとのことでした。一年早まることを国王は心配しておられ、どうにか商売を成し遂げられるよう懇願されておられます。すなわち、郭奕周は国王への精算勘定が済んでいなかったので、国王は亥年二十六番の庶務頭を務めた陳崑山へ船頭役を申し付け、またシャムはご当地からはるか遠くにある故順風の季節を逃さず急ぎ渡海するように申し付けられました。その上で郭奕周が持っていた信牌を陳崑山へ渡されました。こうして昨年五月にシャムを出船しましたが、七月十四日洋中で大風に会い是非無く浙江の内温州と申す所へ乗り入れました。元より唐国官所の入津許可証は持っておらず、その上近年西洋に対して来航を禁じておられますから、外国船の往来の吟味は厳しく、このため海上沖に船荷物共に官所より封じ置かれ、そのまま決着を見ず、陳崑山は温州へ滞在しておりました。しかし段々渡海が延引されるばかりだったので、陳崑山は商い仲間の陳煥卿へ信牌を譲り、上海においてシャム出産の荷物を少々調達、また生糸の類を積み添え、この度都会して参った次第です。

さてシャムの属国カンボジアの両国王山王水王の件、数年来不和が続き度々闘争に及び、結局山王が打ち負けシャムへ出奔致され一昨年まで在留しておられましたが、シャムより水王方へ和睦の使者を何度も差し越され、ようやく和睦が調い、シャムより一昨年山王がカンボジアへ迭り越された由を承っております。次に大清のこと、諸省共いよいよ静謐との噂を承っております。以上の外、別に申し上げることはございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 寅正月廿一日    風説定役
           唐通事目付
           唐通事共

注① シャム船の記録は 1719年から1722年の間空白であり、この三十番シャム船に該当する記録は無い。


亨保八年(一七二三) 十二番 カンボジア船の唐人共の口述

私共の船はカンボジア仕立ての船で、唐人五十人が乘り組んで当五月四日彼地を出帆致し、六月十七日に普陀山へ船を寄せ、生糸等の荷物を積み添え、同廿八日普陀山を出船し、順風を得ることができましたので、日本の地何国にも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭吳子雲は、一昨年二十五番の船頭でございます。帰帆の節お与え遊ばされた信牌をこの度持参して参りました。乘り渡ってきた船は、初めての渡海でございます。

カンボジアは、以前から山王水王と申して両王が国を治めておりましたが、先年山王と水王と敵味方に成られ合戦に及びましたところ、山王が打ち負けシャムへ出奔いたし、その後シャム兵を乞いカンボジアへ人数を指し向けました。水王は広南へ援兵を乞い、重ねて合戰いたしましたが、シャム勢が敗北いたし、水王が勝利を得ました。それより水王一人でカンボジアを治め、只今静謐に成っております。山王は終に本懐を遂げず、シャムで去年病死致された由を承っております。また大淸も、諸省共にいよいよ寧謐とのこと普陀山にて伝え聞きました。この外に変わったことはございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
 卯七月三日     風說定役
           唐通事目付
           唐通事共


亨保八年(一七二三) 二十七番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、去年十二月に浙江の内寧波で船を仕立てシャムへ渡り、彼地出産の荷物を調達し、当七月三日シャムを出船し、同月晦日に普陀山へ着船いたしましたところに、船底に水漏れが見つかったため船を乗り替え、生糸等の荷物を積み添え、唐人四十七人が乗り組んで、十一月廿七日普陀山を出帆し渡海して参りました。海上風が不順で少々日数を費やしましたが、日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭李亦聖は一昨年二十七番船の船頭でございました。その節お与え遊ばされた信牌をこの度持持参して参りました。乗り渡ってきた船は初めての渡海でございます。

次に大清のこと、諸省共にいよいよ静謐と伝え聞いております。またシャムのこと、変わったことはございません。当年は米穀類が殊の外豊熟いたし、人民悦び申す事にございます。以上の外、別に変わったことはございません。

 卯十二月十二日    風説定役
            唐通事目付
            唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)