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バックナンバー 2021-12

唐船風説書

第57回 2021.12.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


ー最終配信にあたってー

「華夷変態」35巻は1717年6月14日までの記録を残している。この配信では第1回(2017年4月1日)配信で1675年6月24日入港のパッターニー船を紹介してから第53回(2021年8月1日)まで、そこからの口述記録を紹介した。

「華夷変態」の続編と言われる「崎港商説」3巻は1722年12月28日までの記録を残している。この配信では第54回(2021年9月1日)から第56回(2021年11月1日)まで、そこからの口述記録を紹介した。

「崎港商説」に更に続くものとし「唐人風説書」が残っており1728年6月4日まで記録されている。そしてそれ以降の記録はない。この第57回配信はそこからの紹介である。そして1728年5月28日入港のシャム船の紹介を最後に、この「唐船風説書」を閉じることになる。

これまでの紹介記事はすべてバックナンバーに残してある。また当サイトの英語版では、石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による「The Junk Trade from Southeast Asia」を掲載しているが、こちらは遅れて2018年10月1日から始まった関係で、まだ当分続く予定である。


亨保十年(一七二五) 十八番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、昨年正月浙江の内寧波で船を仕立て、シャムへ渡り彼地出産の荷物を調え、同七月に寧波へ帰着し船の修復等致し、当六月廿四日唐人五十五人が乗り組んで寧波を出帆致し、同廿八日普陀山へ船を寄せ風待ちをして、当月五日類船四艘と私共の船合わせて五艘が同日に普陀山を出帆しましたが、あいにく風が不順でございましたので数日海上に漂っておりましたところ、同十八日私共の船が盡山と申す所の外海で大風に会い、乗り続けるのが困難に成り是非無く普陀山へ乗り戻リ、同廿日重ねて出帆して同廿五日洋中において又々烈しい大風に会い船具等悉く損傷し、船本体も旣に危い状態でしたので、やむをえず上廻りの荷物を海に取り捨て、殊の外難儀に及びましたところ、運よく風も段々靜まりようやく凌ぎ渡ることが出来ました。もっとも日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。只今承ったところ、類船の内十七番翁聖初の船が一艘先に入津したとのこと。その外の類船ならびに私共の船に一日先立って出帆いたした柯萬藏船もいまだ来着していないとの由にございます。船頭陳憲卿は五年前二十五番船の庶務頭として渡海してきた者でございます。持参して参った信牌は、四年前二番船の乗員だった林其璋へお与え遊ばされた信牌で、林其璋自身が渡海してくるべきところ拠無い用事のため渡海出来ず、名代として商い仲間の陳憲卿がこの度持参して参りました。脇船頭陳崑山は当五月に帰帆した巳の五番船で渡海してきた者でございます。乗り渡ってきた船は七年前の三十七番船でございます。

次に大淸の諸省のこと、いよいよ靜謐とのこと伝え聞いております。且つ又、漳州泉州この二府は当四月五月六月三ヶ月の間旱魃で田を植付けることが出来ず、これに依り米穀類が殊の外高直に成リ、人民が難渋致している由承りました。またシャム国のことは、特別変わったことはございません。

三年前シャム国より船を仕立て大淸へ貢物を納めたその節、朝廷より申し付けられたのは、シャム国は米穀が特別安価なので向後粮米三十万石宛広東福建寧波この三所へ運送致し商売するようにとのことでした。これにより、昨年まず米十万石を大船三艘に積んで、三所へ運送致したところ、一艘は広東へ恙無く到着致しましたが、寧波へ向かった一艘は舟山の湊口で大風に会い破船し乗り組み人数八十人余が溺死致し、福建へ參る筈の船一艘は如何したものか未だ行方が相知れずとの由承りました。このほかに、申し上げることはございません。

     右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
     巳七月廿九日     風說定役
                唐通事目付
                唐通事共


亨保十三年(一七ニ八) 十番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は南京の内上海においてシャム出產の荷物を積添え、唐人五十四人が乗り組んで当月廿日彼地を出帆致し、順風を得て渡海して参り、日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。船頭李亦聖は一昨年三十四番船の船頭をつとめた者でございます。そして帰帆の節お与え遊ばされた当申年の信牌をこの度持参して渡海して参りました。

シャム船が一艘、去年五月四日に本国で仕立て出帆しましたが、船頭郭陸官と申す者が林其璋へお与え遊ばされた去る未年の信牌を讓リ受けそれを所持して渡海致し、六月朔日広東湊沖を乗り通った時、東北の大風に会い数日漂い難儀していたところ、同七日の夜思いがけず浅瀬に乘り上げ即時に破船致し、乗り組んでいた百七人の内船頭共に八十七人が溺死し、信牌ならびに荷物等悉く沈沒致し、ようやく二十人が広東へ流れ着き助かりました。その内一人船頭郭陸官の倅郭皆觀と申す者が、当三月広東より南京の内蘇州へ移って居りましたが、当月上海へ来て今度李亦聖船に便を乞い渡海して参りました。

次に大淸のこと、諸省共にいよいよ静謐とのこと伝え聞いております。シャム表もいささかも変わったことはございません。その外申し上げるべきことはございません。

     右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申しあげます、以上。
     申五月廿八日     風說定役
                唐通事目付
                唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)