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バックナンバー 2022-02

リレーエッセイ

第2回 2022.2.1 配信
JTBF 広報委員会


広告マンが、タイの自動車市場を通して観たタイの消費者の成長と進化 ーその1

本文に入る前に、少しだけ自己紹介をさせて頂きます。 1979年4月に博報堂に入社。初任配属の大阪を皮切りに、東京、バンコク、名古屋と、日本の三大経済都市と、沸騰アジアの中心都市バンコクの広告市場を経験して来ました。本篇では、バンコクで経験したタイの広告事情と、在任中関わりの深かった自動車産業から見えてくる、タイ人の生活の様子と消費者の成長・変化を、個人的な経験と独断と偏見で書き綴ると致します。

「博報堂バンコク勤務を命ず」

入社以来国内営業一筋で、そろそろ環境を変えたいと部門異動を申告していた私にとっても青天の霹靂。まさか海外転勤とは。それも一度も行ったことも見たこともない国、タイ。目の前が真っ暗になったことを今でも覚えています。確かに、当時は、毎日のように沸騰アジアの様子が新聞の一面を踊っていましたが、まさか自分事になるとは思ってもいませんでした。

1995年8月着任。当時は未だドンムアン空港まで高速道路が繋がっていなかったので、アソークのサミットタワーに在ったオフィスまで2時間は掛ったでしょうか?道中、空港に出迎えてくれたタイ人秘書の、日本人には途轍もなく分かり易い英語で話も弾み、当時のバンコク名物の代表格「大渋滞」も退屈する事なく早々経験する事が出来ました。

タイ人とは、タイという国とは?

翌日の出社初日に、早々に違和感が。社員全員が黒を基調とした地味な服装で何となく社内が暗い雰囲気に。微笑の国に来たはずなのに、新任の日本人の初出社なのに、と思いつつも席に着き秘書から社員の紹介と簡単なブリーフィング。そこで、感じていた違和感が解決。ラマ9世プミポン国王のお母様「シーナカリン王太后」が直前の7月にご逝去され国民が喪に服していた事を知りました。この時、ここタイで生活する上で、最も大切にしなくてはならない「王室への敬意」を実感できた事、この経験が、以降のタイでの生活の価値観の基準になったと言っても過言ではないでしょう。更にもう一つ。タイでの仕事も日常化したある日、何気なく目にしたタイ人の価値序列について書かれたカセサート大学パイトゥーン・クルアケーウ教授の1981年の著書『タイ社会の形態と価値観の根底』の中で述べられていた価値の序列に心底から納得。これも以降の私のタイ人との生活の軸となりました。折角なので、ご存じの方も沢山いらっしゃると思いますが、パイトゥーン教授の研究成果を紹介します。以下がタイ人が大切にしている価値観のベストイレブンです。

  1. チャオナーイ(ご主人様)になること
  2. 度量が大きく気前が良いこと
  3. 仏教心にあつく、慈悲 深いこと
  4. 年長者を尊敬すること
  5. 恩義をわきまえていること
  6. 人妻、未婚の女性、婦人と密通しないこと
  7. 僧侶、あるいは修道僧と恋をもて遊び、仏教を堕落せしめるようなことをしないこと
  8. 寺に入って仏道を学び、宗教的知識を持っていること
  9. 博識であること
  10. 勤勉・勤労あること
  11. 賭け事をしないこと

これに触れ、一番納得したのは、10番目「勤勉・勤労であること」。
成程、いつも一人残業している私を尻目に早々に帰宅するスタッフの様を思い起こしました。それと、2番目の「度量が大きく気前が良いこと」。ゴルフ場で食堂でタイマッサージでチップをはずむ。お誕生日に正月にプレゼントを渡す。これに習ったことで、以後タイ人との関係を良好に保つ事が出来ました。長年に渡るタイ人による「タイ人の価値観」の研究結果に改めて感心した次第です。
お陰様で、早い段階で、タイ人の気質・文化の根底にあるものに触れ、無事タイでの生活を安定した水平飛行に持っていく事が出来ました。

タイの消費市場構造への誤解

当時の社員を通して透けて見えてくるタイ人の実体に触れてみます。私が赴任した博報堂バンコクは、海外の広告会社の慣例「同業種1社」に習い同業種の競合する企業の仕事を、同じ会社で担当することを回避するために、既に在ったタイ博報堂の1部門を分離し設立された博報堂のタイにおける第2拠点。タイ人スタッフ30名、日本人は拠点長の私1人の小所帯でした。当時タイの広告市場は、タイ投資委員会(BOI)により進出・誘致された海外企業の経済活動が本格化し、規模こそ日本のそれの30分の1程でしたが成長の真っ只中でした。学生の就職先としても人気が出てき始めた頃でした。とは言え、業界の主流は、欧米系が上位、続いてローカル大手、その後に日系と言う力関係でした。因みに当時の日系広告会社の売上順位は、電通、中央宣広、博報堂。人気の業種ではありましたが、博報堂に応募してくる人材は、外資系・ローカル大手からこぼれたピカピカなものではなかったはずです。ある意味、タイの階層のトップではないので、消費層の実態を推測するには適当であったと考えています。

スタッフの平均年齢は約30歳、女性比率が約6割、学士比率が約7割、修士比率が1割、海外留学比率2割、ビジネス英語習得比率5割、バンコク首都圏出身者比率6割、ピックアップを含む自家用車保有者比率は約3割。当時内規で設定されていた学士の初任給が10,000THB、修士が12,000THB、試用期間3か月後の本採用で若干昇給というものでした。

これが、当時日本の新聞・雑誌に頻繁に登場していた「タイの中間層」のはずだったのですが、実は、これらの属性の生活者は、中間層ではなく富裕層に属する生活者であることに間も無く気付かされました。日本の経済成長に伴う消費者層の実態に照らしてタイの市場を評価してしまった大きな誤解だったのです。その誤解の代表的な例は、ホンダとトヨタのアジアカーの「期待外れ」でしょう。ホンダが1996年にシティを、トヨタが1997年にソルーナを発売。出現し始めてきた「中間層」が、ピックアップトラックから、バイクから、自家用車に乗り換えるであろうとの目論見から、仕様と品質と価格を少しだけ抑えて発売されましたが、結果は芳しく無いものとなりました。当時の自動車市場は、タイ全土の自動車保有世帯比率が2割、全保有のバンコク首都圏比率8割、世帯当たり平均保有台数は3.6台。結局、バンコク首都圏在住の富裕層が複数台保有して、「お父さんのベンツ」と乗り比べると「選択肢には入らない」と言う事だったようです。この事から、タイの消費市場構造は、ピラミッド型で形成されているのではなく、瓢箪型で「富裕層とそれ以外」「バンコク首都圏とその他地方」。日本の紙誌面を踊っていた「中間層」は存在せず極端な二極化構造が実態だったようです。別の家電メーカーの耐久消費財保有調査で、掃除機よりホームシアターと自動車の普及率が高かった事に合点が行きました。参考までに当時のメーカー別シェアは、乗用車が、トヨタとホンダで7割。ピックアップトラックは、いすゞとトヨタで7割。いち早く現地生産を開始した日系メーカーの圧勝。この状況は現在も続いています。先行していながら、現地生産を本格化させたフォルクスワーゲン&アウデイに圧倒された中国の真逆ですね。

タイの試練と変化

日系自動車会社は、この反省を踏まえて、マーケティング戦略を大きく転換し、反転攻勢に動き出した矢先に又も「大きな試練」が発生しました。 「アジア通貨危機」の発生です。

1997年7月のタイバーツの暴落に端を発した瞬く間にアセアン周辺諸国に波及、各国経済はマイナス成長に落ち込みました。タイの自動車産業もそれまでのピークであった1996年比25%まで落ち込みました。日系自動車メーカーも、直後から車両価格を段階的に引き上げて収益の確保を図る一方、現地法人に対して増資を行うなどして財務体質の強化を進めました。対外的には、低金利キャンペーン等の増販施策、部品の値下げによる点検修理メンテナンス促進キャンペーンを実施し、広告も車種広告ではなく、販売促進キャンペーンが主になっていました。アジア通貨危機を経て、それまで各国個別で展開されていた自動車事業は、域内での部品相互補完体制の整備と域内生産の最適化が加速し、関税恩恵と量産効果によるコスト低減で低価格高収益を実現。1998年のアジア大会、1999年のBTSの開業も高揚感を後押し、1998年を底に翌年から復活を果たし、2009年のリーマンショック、2011年の大洪水により消費意欲は後退しましたが、2012年のファーストカー減税で、新車国内販売が初めて100万台を突破しました。2014年のクーデターで販売は落ち込みましたが、2018年には100万台を回復。ただ、これも長く続かなかったようです。どうやら、2010年前後から、タイの消費者を取り巻く環境に大きな変化が起こり始めてきたようです。この環境変化については後程触れることとします。

この後「広告会社の環境と役割の変化」「タイの消費者構造の劇的変化」について、次回配信で触れたいと思います。


文責 原野圭司(JTBF 広報委員)