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バックナンバー 2022-07

リレーエッセイ

第8回 2022.12.1 配信
JTBF 広報委員会

イサンの女生徒の涙が我が人生を変える


 1988年、タイのウドンタニ県の4校41名の中一の生徒に奨学金を提供した。41名の計41万円だった。だが、一度寄付を集めれば責任が生ずる。そのお金がきちんと所定の経済的に恵まれない生徒たちに給付されているか、その調査の旅をする羽目になった。

 最後の中学校を訪問した時だった。校長室で待っていると10名の奨学生が入ってきた。全員の生徒たちが泣き顔だった。嬉し泣きでなく悲しみ泣きだった。何故泣いているのか理解できなかった。一人の女生徒が代表して話し始めた。「奨学金があり、中学校で勉強できます。家族と一緒に住めます。出稼ぎにいかなくてもすみました。でも、幼馴染の友達は、中学校に来れず、家族と一緒に住めず、村を出て町に出稼ぎに行ってしまいました。友達を助けて下さい」と泣きじゃくりながら話した。当時の女の子の出稼ぎは風俗産業に売られることを意味していた。「友達を助けて」という涙だった。この子どのたちの涙が、私の人生を変えた。悲しい映画やテレビ番組を観ても、物語である。現実ではない。だがこの子供たちの涙は現実だった。私も目から汗がでていた。日本の中一の生徒とこの生徒たちを心の中で比較してしまった。イサンの生徒たちは何と素晴らしい友情を持っているのか羨ましく思った。私個人と41名の子どもを天秤に掛けた。自明の真理である。41名の子どもの方が重い。もし私が意を決して本格的に活動すれば、来年は41名以上の子どもの教育支援ができるかもしれないと思った。本格的に奨学金活動を維持し、拡大することに意を決した瞬間であった。1989年45歳の時だった。当時の私は北米大学教育交流委員会の代表を務め、米加大学の日本語講座普及事業を、著名なコーネル大学名誉教授ジョーデン博士一緒に展開していた。(右上写真:泣いて訴えてきた10名の奨学生たち)

 帰国して直ぐの事だった。朝日新聞の記者の取材があった。本職よりダルニー奨学金の事を熱心に話し、それが記事になった。即反応があり、タイに知らせる。「グッドニュースで、600口の奨学金の寄付があった。急いで600名の来年中一になる生徒を選考して欲しい。」という要望の手紙を書いた。600名もの中学へ進学したい生徒は居ない。よって、600口の奨学金を3年度分にして、200名の生徒なら何とかなるということで、それを了承して欲しいという内容の返事があった。

 あんなに沢山子供がいるのに、中学校に行きたい子供が居ないとは信じられない。懐疑心が起こり、自分の目で確かめるために再びタイへ行く事となった。

 最初の小学校を訪問した。校長先生に挨拶し、6年生のクラスに行き、中学進学したい人はおりますかと問う。誰も手を挙げない。「奨学金がありますので、中学進学希望者には提供します。」と言ったが誰も手を挙げない。訪問した二校目も三校目も同様であった。タイ事務局は中学進学希望者がいない学校を選んだという懐疑心から、予定外の県道沿いの小学校に飛び込み訪問した。小学校六年生クラスを訪問し、中学進学の奨学金の事を話したが、前の3校を全く同様の結果であった。なすすべもない私は本当に困り果てた。

 同行した慶応大学大学院のタイ留学生サクダさんの父親が、今晩村人を集めるから、そこで話してみてはどうかとの提案があり、他に当てがなく同意する。道すがら、イサンの農民の文化、考え方を教えてくれた。親孝行が一番大事な考え方で、その為に親の農作業、家事労働をすることが基本であることなどを説明してくれた。また当時の親たちは小学校3年の教育しかなかった。父親のソムキッドさんは良心的な政治家で、農民から慕われていました。この地域で知らない人がいないぐらい著名な方でした。ロンドン大学の大学院卒で、英国夫人の間に生まれたのがサクダさんであり、日本に留学しているサクダさんは、村人の自慢の青年であった。そのサクダさんが、友人の日本人を連れてきたという事で、老若男女ほぼ全員の村人が境内に集まった。月明かりの下での村の集会である。ソムキッドさんは政治家であるので、話がうまくまた長い。サクダさんが通訳してくれた。私が実施した在日留学生を対象とした北海道の「国際交流のつどい」の留学生150余名の一人だったサクダさんとの出会い物語も皆を魅了した。青函連絡船で、イサンの楽器「笙」の音色に魅せられて会話をした経緯から始まり、今41口のダル二-奨学金を創設したことなどを村人は目を輝かしながら聞きいっていた。

 私は当然タイ語もできないので、全てソムキッドさんとサクダさんがこの月明かりの下の村人の集会を仕切ると思い込んで、気楽に演説を聞いていた。だが、突然お鉢が回ってきた。ソムキッドさんが前座を務めた。「さー、秋尾の番だ。」と促された。考える間もなかった。。雰囲気に呑まれ、何を話すかも考えず、否応なしに身体が動き、皆の前に立った。サクダさんも通訳をするため立ち上がった。

 「私の子ども時代は、日本は戦争に負け本当に貧しかった。衣食住に苦労していた。だが、そんな貧しい時代でも小中学校は義務教育で貧富の格差なく、全員が学校にいった。だから今日の発展した日本がある。」と教育の重要性を話した。その背景には米百俵の精神があったことも話した。

 最後に、「中学校に進学し、勉強すれば、この貧しい村の地域おこしの担い手になり、村の発展に貢献できる」。 また「小学校卒業と中学校卒業では、親孝行の度合いが違う」、と両腕の肩幅の幅から精一杯腕を広げて見せた。「ここに奨学金がある。600余名の日本人が提供してくれた。これらの日本人はイサンが何処にあるかも知らないでしょう。これらの優しい日本人は日本の仏さまにお布施をしたのです。村を良くしたい、親孝行をしたい人たちは、タイの仏さまから奨学金をもらえるのです。」と私の話を締めくくり、ゴザの上に座った。

 突然、最前線に座っていた少年が「中学校に行きたい。より大きな親孝行をしたい。村を発展させたい」と大声で叫んだ。他の子どもも中学校で勉強したいと叫び始めた。子供たちの声を聞いた村長さんが飛び出してきて、「本当に中学校へ行きたいのか?」と大声で子供たちに問うた。全ての子ども立ち上がり、一斉に大声で「中学校へ行きたい。勉強したい。」と叫んだ。月明かりの中、天まで届くような子供たちの願いの声だった。

 サクダさんのお父さんが複数の村で集会を準備し、サクダさんと私はこのような辻説法をして村々を回った。サクダさんの通訳も堂に入り、直ぐ600名の奨学生の選考ができ、無事使命を果たすことができた。

 女生徒の涙から35年が過ぎ八十路を迎えたが、未だ現役で仕事をしている。35年前、町のショウウンドウの中のスパーマリオを羨望の目で見るイサンの貧困家庭の子ども達、その貧富の格差に唖然した思い出が走馬灯のように蘇る。この35年間のタイの変貌は凄まじい。確かにタイは豊かになった。だが、豊かになったとは言え未だに貧困家庭の子どもの教育の課題は残る。中学進学はするが経済的理由で中途退学する子供も多くいる。また、中卒だけではよりよい職に就けず、今年から正式に普通高校・技術系高校への奨学金支援も開始した。(写真右:コロナ前に家庭訪問した時の写真、ご両親は出稼ぎでおばあさんと一緒に住む奨学生)

 ある奨学金提供者は、日本のお父さんお母さんということで慕われ、支援した子供の結婚式に招待されたりする。いろいろな物語が多くあります。思いにもよらない、楽しい人生をすごさせて貰いました。と、お礼の便りも頂きました。一粒の種が多くの人々の幸せをもたらした物語です。これからも、いろいろな交流が生まれるでしょう。

文責 秋尾晃正 (JTBF 広報委員会 委員) 
公益財団法人民際センター 理事長  https://www.minsai.org