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バックナンバー 2009-11

「日・タイ随想」

No.38 2009/11/01

アジア破落戸 その2 タイ北部山奥紀行

JTBF会員:西條 正和
2009/11/01

  今年5月にアジア破落戸というテーマで寄稿させていただき(参照:バックログ)我々の駐在時代を振り返り、当時の心境をまとめてみた。当時は円高の影響を受けて国内が苦境に立ちタイを中心に日本企業がこぞって東南アジアに進出し、極めて多くの駐在員がタイに送り込まれ懸命に企業活動に奮闘した時代であり、筆者もその一人であった。

  当時、タイの新聞に「日本から経済難民が押し寄せてきている」と揶揄されていたことを今も鮮明に記憶として残っている。

  このような中で多くの駐在員がバンコク・チェンマイを中心に企業戦士として活躍したのは事実であり、多くのタイ好き人間やタイ通人間を産み出し、タイを理解しているタイファンが増加し、現地を体験した人間の中で一部のタイに溶け込めなかった人に対しタイが本当に好きになった人の割合はどの国よりも極めて高いという事実にタイという国の特性が表われているように思われてならない。

  筆者もタイに魅せられ取り込まれた人間の一人であるが現役当時は進出した企業の使命達成のため日夜駆けずり回り、ビジネスの世界のなかで多くの人とも出会い、信頼できるタイ人従業員にも恵まれ、また日本よりの訪問者の接待や休日の息抜きのゴルフを通じていろいろな場所にも行くことができ貴重な生活を体験しビジネスの世界を通じてタイという国を理解したつもりであった。

  しかしながら現役退任後ある機会を通じて「本当にタイという国を理解しているのだろうか!知っているのだろか!」と言うことを考えるようになった。

  それは自分が体験したタイはビジネスの世界を通じたタイだけでないだろうかという疑問であり、現役時代は会社よりあてがわれた車で限られた行動しかしておらず、もっと違うタイを見てみたいと強く思うようになった。

  その機会とはタイ時代の経験を元に丁度退任時設立された埼玉・タイ王国友好協会に呼び込まれいろいろなボランティア事業に取り組むことから新たなアジア破落戸の道が始まったのである(参照:埼玉・タイ王国友好協会の活動紹介(2009)埼玉・タイ王国友好協会の紹介(2007))。

  それ以来、これまで経験できなかったタイ北部の山奥まで十数回も足を延ばし、幾つもの山岳民族の学校を訪問し、またイサンの見知らぬ土地を一人で訪ね歩いたり全く異なるタイの社会をみて認識を新たにしているところである。

  この最初の強烈なインパクトを受ける訪問となったメーホンソン県山奥のバンクッドサンシップ校というリス族の学校に調査にいったときの状況がメモとして残してあったので「タイ北部山奥紀行」として紹介してみたい。

  第一日目

  今日はバンコクよりチェンマイを経由して処女地メーホンソンに入る日である。

  タイの国内線どうしの乗り継ぎは始めての経験でバンコクでメーホンソンまで搭乗券を発券して手荷物も預ける。

  チェンマイ空港へ到着、1時間半の待ち合わせでメーホンソンに向かう予定であったが我々のフライトの前便がまだ出発をしていない。「やばいな!」と直感。

  15:10発の予定であるが「メーホンソンがBAD WEATHERであり調査中、30分後に案内する」と言うアナウンスがあり、チェンマイがこんなに天気が良いのになんでメーホンソンが天気が悪いのだとイライラしてくる。

  その後30分毎に全く変化のないアナウンスが続き、イライラも限度に達した17時を過ぎて「今日は欠航」との裁定が出てしまい、どうせなら「もっと早く決めろ!」と内心毒つきながら預けた手荷物はどうなるのだ!今晩はどこへ泊まればよいのだ!と心配が駆け巡る。この何年かほとんどトラブルを経験してこなかったのに久しぶりのフライトトラブル!

  バンコクで預けた荷物を探し当て、タイ航空で手配したホテルをごった返すカウンターで手続きをしていると背中越しに「○○さんですか?」と穏やかそうなタイ人の見知らぬ紳士が声をかけてきた。

  何で私を知っているのだろうかと不思議がっていると「私はメーホンソンの教育長でMr.G と言います」と日本語で自己紹介をしてきた。

  空港で大勢の人間でゴタゴタしている中、「何故 自分と分かったのだろう?」「何故メーホンソンの教育長がチェンマイの空港に居るのだろう?」「県のハイポジションの立場にある教育長が何故日本語を話すのだろう?」と不思議なことばかりである。

  当初の予定ではメーホンソンの空港に県の教育局の関係者が私の名前を書いた看板を持って迎えに来てくれることになっていたが突然のアクシデントによって、さてこれからどうするか思案せねばならない時にチェンマイの空港でメーホンソン県の教育局のトップに出会うとはこれこそまさに狐に包まれたような状況であり、まさに神風が吹いてきたのである。

  ホテルの手配も終わり、彼と落ち着いて話をしてみるとこれまでの一連の疑問を一挙に解決することが出来た。

  彼はメーホンソン県の教育長であり、静岡大学へ1年間の留学経験がありその間懸命に日本語を勉強したことにより片言ではあるが話せるようになったとのこと。

  これは我々にとってこんなラッキーなことはなく、まさに運命的な出会いの予感がする。

  教育長は昨日からチェンマイに来ており、我々と同じフライトでメーホンソンに帰る予定であったが欠航のため空港内で私を探していたとのこと。

  彼が言うには明日もフライトの欠航があるかも知れないので明日早朝チェンマイからメーホンソンまで車で行こうとの提案がある。

  車で行くことは全く考えておらず「どのくらいかかるのか?」と聞くと5時間で行くという。ガイドブックによると8時間かかると書いてあり、えらくかかると言う認識があったが言われるとおりした方が良いと判断し想定外の行動をとることにした。

  肝心の車は今晩中にメーホンソンの教育局の車を取り寄せると言うことである。

  一晩無料でホテルへ泊まれるとなるとなぜか得をした気分になる。このホテルは十数年前に人気歌手であったテレサ・テンが謎の死を遂げたことで有名になったホテルである。

  明日はいよいよ未踏の地メーホンソン入りである。

  第二日目

  チェンマイからメーホンソンまで陸路247KMを走るとは夢にも思わなかった。約束していた8時にミニバスが教育長夫妻・教育局の職員等を乗せてやってきた。

  教育長の奥方は静かな気品のある顔立ちで昨日が日曜日だったのでチェンマイの自宅に帰っておりメーホンソンでは小学校の教師をしているとのことで教育一家のようだ。

  チェンマイから西方に一路メーホンソンに向かって国道1095線を突っ走った。

  これまでに見慣れたチェンマイ県の景色が過ぎ去り、2時間を経過した時に山岳風景が多くなりメーホンソン県に入ったことが確認され、日光のいろは坂のような曲がり路を一挙に高度を稼ぎながら走り、国道と言え殆どすれ違う対向車もなくいろんなことを頭に浮かべながら進んで行った。

  今走っている国道1095線は昔日本軍が作戦遂行のために開拓した道路であり、またインパール作戦に敗れた日本軍が撤退した路で多くの日本兵の屍であふれ、白骨街道とも呼ばれており厳しい山を切り開いた道路を我々は今、現実に走っているのである。

  正午過ぎた頃、今回の目的地があるというパンマパーというメーホンソン市より北方60KMにある小さな町に到着した。

  この時点ではその後体験するだろう驚きを全く予想することもなくどこかこの近くにタイの教育省から紹介された学校があり、これから視察するのだと軽い気持ちで臨んでいた。

  国道沿いに日本の感覚ではうら寂しい古びた海の家に似ているひなびた食堂があり、これがこの地では洒落たレストランと言うことになるのだろうBAAN COFFEE(コーヒーの家)と言う名前がついていた。

  ここで教育長の奢りの地料理で昼食を済ませ、教育長夫妻は業務があるので我々と別れメーホンソン市の庁舎に帰るとのこと。これからは県の四駆の車を2台呼んであるからそれに乗り換え、目的の学校を見てきてくれという。

  目的の学校はここから18KMのところにあるとのことで、今晩は19時に市内で再会し夕食をともにする約束をして別れることになった。その時点でもまだこれから経験する大きな驚きを予感することは全く出来なかった。

  国道1095線沿いにあるパンマパーの町から離れ山道に入る。しばらくは舗装されており何の不安も感じていなかったが舗装が途切れてからまさにオフロードに近い赤土の凸凹路が続く。

  今は乾季で凄まじい砂煙を立てながら進んでいるが雨季には一体どうなるのだろう!

  路の真ん中には大きな岩石が至る所に露出して、それを四駆車はうまく避けながら進むが雨季にはここが轟々と流れる谷底になることは間違いない。

  助手席に座していたが体が上下左右に振られ、シートベルトをしっかり締めているものの頭を天井に何度もぶつけ、カメラのシャッターを押すことも出来ない。

  殆ど集落らしきものも見ることなくところどころ焼畑で開けた山林を50分ほど進むとタイ軍の検問所が突然現れ小柄な少年兵のように見える兵士が銃を構えて尋問してきた。

  この地はミャンマー国境から30KM以上離れている筈でありこの警護ではなく、多分昔はけしの栽培で生計を立てていた地域であり、麻薬撲滅の政府の厳しい方針のためミャンマーからの密輸を防ぐための監視を目的にしているようだ。

  検問所を過ぎて見晴らしの良い尾根筋を15分くらい走ると傾斜地に突然4~50軒の集落が現れその最下段に目的の学校らしきグランドと校舎が見えてきた。時間は丁度午後2時、パンマパーの町を出て18KMを1時間10分の行軍であった。

  我々の四駆車が土ぼこりを上げながら学校内に入場したが意外に校区はグランドもあり広い。後で聞いたところ全面積は約20,000平米もあり、幼児クラスからP(ポー:プラトム<小学>)1から6およびM(モー:マタヨン<中学>)3まで197名が13名の先生とともに学んでいるとか!

  この辺りは山岳民族(コン プーカム)のリス族(コン リソー)が中心らしい。

  タイには10数族の少数民族が政府の保護政策の下でそれぞれ伝統の生活をしておりその数は65万人にもなりタイ人口の約1%にもあたり、リス族は標高600M以上の山に住みタイ北部に約3万名強住んでおり、中国南部の山岳地帯から移動してきたらしい。

  子供達も珍しい人間達が訪れた事に最初は遠目から眺めているものの意外にも無関心を装っているように感じられた。

  相当以前に建てられたと思われる校舎三教室と図書室があり校庭の入り口横には比較的しっかりした幼児舎があり、薄暗い部屋の中で15人の幼児が車座に座り牛乳パックを飲んで居た。聞いたところタイは数年前にM3まで義務教育になり、政府の方針としてこの地域の学校に対して1日あたり[生徒数×70%×12Bhat]の補助金が出るそうだ。

  これはタイでは丁度牛乳一本程度の値段になり、学校に来ればただで飲めることになり遠くからも通ってくるようだ。

  この後この学校のクルーヤイ(校長)が紹介され、彼女が積極的に我々の話し相手になってくれ 彼女は35歳の独身(その後の何度かの訪問で既婚者であることが判明したが・・) タイ中部の出身であるがこの山奥の学校を少しでも改善することに大きな情熱を持っていることが話をして強く感じられた。

  後で教育長に「何故この学校に我々が接触することを県として選らんだのか?」という質問をした際、教育長は「この学校の校長は改善意欲に情熱を持っており、経営者の感覚を持っているからその期待に応えてやりたいから選んだのだ」という答えが返ってきた。

  この校長の案内で竹網の古びた教室とか現在67名が寝泊りしている男女別々の粗末な寄宿舎として使われている素通しの掘立小屋のような寮を見て回った。

  この辺りは標高1000m近いと思われ年間の最低気温が3~4度になると思われこのような素通しの寮で電気もない世界でどのように生活をしているのか全く想像もできない。

  幾つかの薄暗い教室の中では授業中であり、我々が授業参観しても振り向きもせず懸命に勉強を続けている姿には少々驚きを感じた。

  校内を一巡し古びたユーティリティハウスへ案内されたがこの前で可愛い中学生らしき生徒がグラスに入った水を持ってきてくれ遠来のお客様に「どうぞ!」と言うわけである。

  普通であれば接客と言う意味で自然な行為であるがここではその意味するところが極めて貴重な接客行為であることを忘れてはならない。

  今もって来てくれた水は多分4ヶ月くらい前に降った雨水なのである。今は乾季で雨は降らない。雨季に大きな土壷に溜めた貴重な水を節約しながら次期の雨を待つのである。

  折角もって来てくれた水ではあるがどうしても直ぐには喉を通らない。一方この親切な行為を無視することも出来ず口に通すかどうか一瞬迷ったが一口だけ喉を通し、感謝の意を示しながら彼女にグラスに水を残したまま返した。

  この後1時間ほど質疑を行ったが校長に「我々が援助をするとしたら今この学校で何を一番期待したいか?」と尋ねたら「寄宿舎がほしい」と言うことである。

  この学校を視察して感じたことは支援をする素材としては幾らでもあると言うことであり、何としても期待に応えてやりたいという思いが強く心の中で広まった。

  2時間ほどこの学校で過ごし大きな感動を持って2時間の行程のメーホンソン市に向かったが帰路も昨日同様どんよりと曇ったようなスモッグがかかっている。

  昨日飛行機が欠航になったのもこの所為でこの理由は山火事である。この時期の野焼きは彼らの習性になっており国道の直ぐ脇で至る所で燃えているが誰も消そうとはせず管理不能になっている。政府が躍起となり警告をしているが全く無視されているらしい。

  この山火事は煙公害を引き起こし、洪水を導き、飛行機の欠航となり折角の観光資源を台無しにしているというのに!

  夕方ホテルから教育長との夕食に向かう途中も周囲の山々至る所に山火事の炎が京都の大文字焼のごとく見事な幾何学的模様を描き出している。

  翌日もぎりぎりまでフライトが心配されたがなんとか飛ぶことが判り無事にチェンマイに脱出することが出来た。

  このわずか二日間のタイ北部メーホンソンの旅がチェンマイに着いた瞬間、一週間も離れていたように感じられるほど今回の体験で強烈なインパクトを受け、これまで長いタイの生活で味わえなかった体験をし、これを契機としてビジネスの世界と異なるタイを見聞することに興味を覚え、その後このメーホンソンに10回ほど足を運び、また未知のイサンの見知らぬ土地を訪ね歩き今後もアジア破落戸の道を極めたいと思っている。


(元元新電元泰国社長)